小さな女の子の末路
小さな女の子は、自分より大きな愛を持ちながら、いつどんな時も手放さなかった。それは重たくなく、軽くてどこまでも飛んでいきそうな軽快なものだったので、受け取った人がまたそれを周りに広げていった。小さいながらに誰よりも愛を身につけた人だった。
そして少女の愛は与えるほどに大きくなった。街中のみんなが、彼女を素敵な人だと言った。
けれど少女の心の真ん中は、ぽっかり空いていた。そこに自分の持った赤を注ぎ込む訳でもなく、自分が与えれば誰かが返してくれるだろう。と信じながら。
ただそれを望むのは近所のおじさんや小さい子からではなく、ただひとり、少女が大好きになった男の子からだった。底の見えないほど真っ暗闇になった深い穴に、どぶどぶと赤い液体を注いでほしかったのだ。
けれども、そう願ったその男の子の心にも、ぽっかりと大きな穴が空いていたのである。男の子はその穴から、愛を振りまくことは疎か、愛を受け取ることすら怖くなっていた。
少女はその穴に気付いた途端、離れようとせず、「今までつらかったのね。私が満杯にしてあげるわ。」と赤いジュースを零した。
けれども、長年“空白 ”に慣れていた彼は、急に穴が塞がることもまた怖かった。またすぐに全部捨てられてしまうのかと、怖かったのだ。そして少女に別れを告げてしまうのである。「もういいよ。」と。
二人が望んでいたことは何だっただろう。
二人が上手く行く為には何が必要だったのであろう。
色んな愛を経験すれば、色んな愛が怖くなったり、そもそもめんどくさくなったり、そもそもどれも愛じゃなかったと気付いたり、もう誰もいらねぇとなったり、またこんな過ちはしたくない、とシャッターを下ろしたり。
するけれど、物や仕事やお金がありすぎるこの都会で、大事な物を失わずに生きていける人っているのだろうか。
仕事が1番大事な人はそれでよい。大事な人との時間が1番大切ならそれもよい。稼ぐことが1番ならそれでよい。
でも僕らは何の為にそれをするのだろう?
どんな死を迎えたいのだろう?
今日も心と心に互いにぽっかりと大きな穴を作った二人が、穴の埋め愛ごっこをしている。
それはそれで人間らしいが、少女と少年がもしも本当に愛するといえる時は、互いが自分で自分の穴を埋められた時ではないだろうか。
その穴を埋める際に、赤い液体の入ったバケツを、一緒に逆さまにしたりと手伝うのが愛なのかと思う。互いに穴を埋め合うと、一時期は非常に愛し合ったように錯覚するが、自分のタンクの底がダダ漏れ状態なので結局は満たされないのだ。
「あなたはそこに自分で愛を流していいのよ。」と言えるのが愛なのではないだろうか。そうして一人で真っ赤になれた相手の心に、振りかけるようにして上からダラダラと違う赤を垂らして、奥深い赤を作るのが、素敵な愛に見えてきた。
ひょっとしたら僕の持っている愛は赤色でもなく藍色かもしれない。
そしたら余計に、赤や緑色を持った人を愛してみたい。
とりあえず、僕はペンキを持って他人の白い部分に色を付けることばかりしてきたので、少し休業して先ずは自分が自分の色に満遍なく染まってからまた働こうと思う。
それは心の話であり、よくコップの話で例えられるようなモンで、僕は自分の水を他人に分けてきたのでどんどん自分のコップが枯れていたのだ。それでも僕は与えるのが喜びだった。
それは別に恥じることでもない。
それくらい僕は愛が深い人間で、元々コップも大きいんだろう。
ほんの少しでいいから、そう生きてきた自分に先ずは少量の水から与えたい。
少年が急に穴を埋められると怖くなったように、愛し方愛され方には慣れが出来ているものだ。
僕は自分を愛することに慣れていないので、ちょっとずつ感じていくことに努める。そうして僕が他人への「ペンキ塗り」や「水増し」を休業したとて、僕が自分を満たして笑顔でいるだけで「あなたが笑顔で私も幸せです」なんて変態が現れるんだ。
僕は一人で幸せになっていい。僕は僕に愛されていい。母からの愛にも自信があるけれど、僕が僕を愛す愛はどこまでも裏切らない。
誰かに穴を埋めてもらうのはもうやめよう。
僕はさみしかった。
それはそれは生まれてから間もない時のことだったかもしれない。中学生、いや幼稚園の頃からだったのかもしれない。
良い歳の大人だって、抱えている寂しさを掘り下げて掘り下げて掘り下げれば、結局みんなそんな所に遡る。
みんな親に愛されたかったんだ。
あの時、あの人に、こうしてほしかったんだ。
自分の心に穴が空いてることすら気付かず、今日もみんなが「なんでよ!なんで愛してくれないのよ!」と叫び合う。
一旦、みんな休もう。
ただ海を眺めよう。太陽を感じよう。
生きよう。
それでいい。
生まれてきた意味など、問わなくて良い。自然を感じるだけで僕らはまだ何かに気付けるだろう。そこまで感性は死んでないだろう。
それでも何も感じなければ、感じる暇もないと言うのであれば、1回死のう。
イメージの中だけでいいから、今死ぬことや今後必ず死ぬことについて考えよう。
死があまりに遠くなりすぎたこの世界では、意識しなければ流されるようにして大事な物を失っていくレールに乗ってしまう。
いつまでもただぼーっとガタンゴトン体と思考を運ばれる乗客ではなく、直感で道を選んでいく運転手でいたい。
僕は少女のまま、大人になる。
どんなにこの先美しい人になっても、内面の美しさと、済んだ白目は、少女のままがいい。それが一番美しいと思うからだ。
恋愛をFXに例えると
恋愛をざっくりFXに例えると。「全ての資金」が自分だとして、「市場」が相手だとする。また市場に投入するお金を相手に与える愛情や行動とし、市場の動きはそのまま、相手のテンションや忙しさや人生の山谷とする。ここまでで、なんだか小難面倒くさい(笑)
まず、勿論こちらは「市場に目を注ぐ」わけであるけれどポイントがいくつかある。
ひとつ、自分(資金)に余裕がなければ相手(市場)に対する余裕もない関係になるということ。資金が沢山ある=自分が満たされている、余裕がある、のなら、その分相手へ「与える」ということが可能になる。だからといって、自分が100(万)だとして、それを100相手の為に与えると、急に相手が「俺…仕事クビになった。最悪。ビルの屋上から飛び降りたい…」と極度な鬱になった時に自分も一緒に落ちてしまうのだ。
もしそこで、「同じように100あるけど8割はメイクやファッションに使おう。あとの2割であなたにあれこれしたい」といった、かなり自分への喜びの為に自分を癒している場合。数字にすると、「えっ!たった2割しか割いてくれないの??」と思うけど、結果としてその余裕が「仕事クビになった飛び降りたい」と鬱になった彼と一緒に落ちることなく、「大丈夫よ。私は信じて待ってる。」なんて言えちゃうんだと考える。費やしているのは2割でも、そこにずしりとでっかい愛がある。
※FXの話をしたい訳ではないので、詳しく書いたら「そういう意味じゃねぇよ」ていう箇所も出てくるので大目にね。
で、FXの世界では「強制ロスカット」なんて怖い響きの仕組みがあって、損益が大きくなりすぎるとそこで終わりか、「まだお金があるならもっと余裕を作ってくれよ☆」と更なる入金をせがまれる。
これを例のカレカノに当てると、「あなたが飛び降りるなら私も死ぬ。」というメンヘラ要素満載で共にどこまでも病み落ちて、死ぬのだうぅあぁああ!てなってる状態。その瞬間、天から「彼に今まで“与えすぎていた”分を強制返還しますね。」と、すっかりマイナスになったお金を貰う。つまり何も残ってない。自分もすりへった。てことになる。
て、すげぇバカなことにそれでも気付かず、それでも「彼を救うのだ!!!(自分死んでるのに)」となって借金までして注ぎ込むある意味猛者もいる。
絶対はない世界なので、それで運良く「お、おまえがいてくれて俺は生きようと思えたんだ…!!」と急に生きる活力を取り戻してぐーんと二人で幸せに…ていう展開もなくはないんだけど、急にぐーんと上がると大体はその分落ちるという…。FXと恋愛。どこまでも似ているな(笑)
そもそもFXのやり方だって一つや二つじゃあるまいし、短期で多大な利益を得ようとする者もいれば長期でコツコツな人もいる。短期で多大な利益を目指すのなら、それなりのリスクは上がってくるし「常に市場に神経を張り巡らす」ことになる。また長期運用でも余裕がなければ同様だ。
FXの場合はどちらでも良いけれど、恋愛でそれは疲れる。お互いに疲れる。そしてもうひとつ違うことと言えば、FXは「見返りを求める」ということだろうか。
これも見方を変えれば、「相手が弱っている時に与えてあげた分が、相手が元気になったら私も元気になった!」とも言えるけれど、「そのまま弱っていてもいいわよ」とは言えないし「早く元気になれや私の為に」的なものに近いのかもしれない。
あと一番違うのは、相手がめちゃ調子良くグングン上がりまくってる時に、「おいおい、そろそろ、良くないか(下がり時だろ?)」と下がっていく相手に対して投資をしてしまう所である。まぁ、「あなたがダメになった時の為に貯金をしておいたのよ」的な優しさと思えば話はまた別だが。普通は上がっていく彼にはもっと頑張って!と言っちゃうのではないだろうか。(※「売り」をどう比喩で表していいかちょっと分からなかったw)
冒頭に“ざっくり例えると”と書いたくせに、細かいことまで当てはめようとしすぎて訳分からなくなったしまったw(自業自得)。
誰か恋愛に例えた時の「売り」を上手く表す表現があれば教えて欲しいです。
さて、こんなことしてる最中も、市場は常に動いています。
言いたいことは、「未来の動きは誰にも分からねぇ!!」ってことです。
今回は市場と資金を持ってる側として、まるで相手と自分しか存在しないようなシチュエーションで書きましたが、現実はもう、ひとつの市場に対して数え切れぬライバルがいる訳です。それだけ「見ている人がいる」ということ。
「あーおれそろそろ下がろっかなー」て、全然アゲアゲテンションじゃないのにみんなにガブガブ噛みつかれて超人気者!てなっちゃったり、浮かれてたら「もういいや」ってまた飽きられたり、しかも「いやここで元気になんのかよ」とか、「もう少し耐えろや」なんて自分のテンションにすら文句言われながらね。
結論、「自分が市場だったらやってられにぇあ」。以上です。
けど、落ち込んでる時に世界中の色んな方がほいほいつぎ込んでくれるなんて、そりゃ元気になりますわ。
けど、そんな時にも「もっと落ち込めぇどん底に下がるんだ◥(ฅº₩ºฅ)◤ケケケッ」なんて僕を地獄に落として自分がハッピーになろうとしてるやつもいると思うと、、
やっぱなりたくない!!
けど何事にも最も重要なのは、楽しむこと(笑)
永遠の夕日
生まれてから死ぬまでずっと夕日の空だったら、その美しさにずっと見惚れることは出来るだろうか。
僕はきっと、「YES」だ。でも多くの人は美しい美しくないのジャッジマンにすらならずに「見なくなる」(興味がなくなる)のだと思う。
世の男が何百人、何千人と「あの女優と付き合いたい」と願い続けられるのは永遠に叶わないからであり、女優が世の男から何百人、何千人から「付き合いたい」と言われ続けられるのは叶えさせられないからだ。
雨の空しか知らなければ、雲ひとつない青い空を人は願うけれど、生まれてから今日まで青い空を毎日見ていれば「明日も晴れてくれ!」とわざわざ願うことはしない。「何年かぶりの雪」が明日来るかなどまさか考えず、当たり前なことは願わない。
それと同じようなことで、
美人ばっかの世界にいる美人より、ブスばっかの世界にいる美人の方が希少価値が上がり目立ち、競争率(需要)が上がる。下手したら美人ばっかの世界にいる「希少なブス」もコアなファンが出来ると思う。
夕日の話をしていたのにまた女の話になってしまった。夕日の話はもう終わり。
言いたいことは、「競走できる相手がいない」と思っている日本の街を歩いていて目立つのはもはやなんも面白くない。分かりやすく言えば、「美人ばっかの世界(美人が当たり前)でも希少価値があり求められる(目立つ)」そこまで行きたいということ。
女優やモデルやアーティスト達の横に立っても、己のオーラで眩しくて周りの有名人達が見えなくなるくらいのオーラがほちい。そこまでいくと「誰と競う」とかそんなもんはなく「ただ激しく自分を好んで、ただ激しく自分を貫いているだけ」→結果それが「誰にも出せないただキレイとか美人とかそういうんじゃない」真似出来ないオーラに繋がるんだろう。
美意識はもうその辺の子の100人分くらい背負って「美しくないと生きている意味がない!」(ホントは違うよ)ハウル状態だから、己を貫いた生き方に今年は意識を集中させたい。その為にはひたすら好きなことをするのだ。
そんな生き方を出来る人もまだ少ない日本では、そんな生き方をしただけで十分「おまえ、自由人だな」と注目を浴びる。じゃあ果たして、全員がその生き方をしたら全員がピカーん!と輝くオーラを放つか?といったらそうでもない。(みんなキレイにはなるけどね!)
たとえば、ゲーム好きで四六時中ゲームしている人は好きなことをやって己を貫いているのに、パーっ!と周囲を溶かすような熱いオーラはある?と聞かれたらどちらかと言うと髪はぼさぼさ、顔は油っぽい、もごもごした喋り方、よくあるニートの図を想像する。畑が好きで畑を耕すおじいちゃんは素敵なオーラはあっても、アーティスト的なオーラはない。
つまり見た目(ここではオーラ的なもの)は「生き方に似合うようになる」ということか。
“己を貫く ”の他に、強すぎて強すぎて外に出さないとパンクしそうな感情があって、それを「私の身体という小さい身体では抱えきれないので世に吐き出させてもらいます。」ていう状態がアーティストだと思う。
だからゲーマーや畑耕しおじいちゃんのオーラが決して腐ってるわけじゃなく、好きなことしてキラキラしている、にプラスして「この身体で表現するんだ」という強い意志の持った人は見た目にも大きなオーラが備うんじゃないかと。
そして、抱えきれなくなったう〇ちをただ排泄するだけ、ていう行為を「芸術的な形で生み出せるだろうか」とか「かっこいいポーズで出してみようか」なんてことは考えずに、ただただ内にあるものを外に出しただけ→それが格好よく映る、ていうのが本物のアーティストじゃないかな。だから「カッコ良さ」を求めて生きるというより、そう生きるその姿こそがカッコイイ。誰にも真似出来ないカッコ良さなのは、こうして後からついてくるというカッコ良さの「備わり方」が違うからだ。
「売れる物」を作ることは勉強すれば誰にでも出来ること。
自分の教科書にも他人の心の中にもどこにも載っていない「自分の中にあるものを外に産み出す」という作業が出来るのが〝表現者〟。
その表現が周りの人に「私だけじゃなかったんだ!」と思わせて共感を得るのも〇。でも僕は「こんな考えの奴(変な奴)がいるんだ!」と今まで狭いと思っていた世界観を広げられる人になりたい。
「変えてんだこの世界を!」と反発精神の塊みたいな歌を歌う気もないし、「おいみんな目を覚ませ!」と煽る気もない。勝手に僕は自分の小さな体内では抱えきれなくなった「感情」「思考」を排泄をすることだけに熱を出し、それを見た誰かが勝手になんか感じてくれればいい。じゃないと便秘になって他の仕事も出来なくなる。
見た人にとって勿論僕という存在が人生のプラスになれば光栄だけれど、「こいつきめぇ、私の方がマシね。」と思ってくれるだけで僕に興味があるのだから嬉しい。僕がいま誰かに嫉妬して頑張れるように、「この子だったら私の方がイケる!」と誰かの輝きへの糧になるならそれはそれで良い事だ。
夕日の話とかもうどうでも良いし、響きが気に入ったからタイトルに利用しただけ(笑)
「周りの有名人のオーラを食う」という、まさにそんな理想の動画が、あった。女王蜂アヴちゃん。ようちぇっく。
苦手な女が誰よりも多い僕は「女」という生物への美意識が異常に高いだけ、やねん。
早くバイクに乗りたい。
今日は「良い子」のブログじゃない。
僕の感性的に、料理やピアノはギャップが必要で似合わなくてなんぼ。「似合わない女」が出来るからこそカッコイイ。似合う女じゃつまんない。対してバイクは「似合う女」の方がカッコイイ。
もう勝手なただの感性です。
そんなことを言ったら、純粋に好きな物を好きと言っている人を全否定するような言い方になるし、美人じゃなきゃバイク好きになったらあかんのかい!となるから「やめてください」と言ってる訳じゃない。
バイクは別に美人に乗られて嬉しい!とかブスに乗られて「俺の絵が汚くなる…」とか思ってないと思うが、僕がイケメンなバイクとして生まれたのなら僕をより格好よく映してくれる美人に乗って欲しいなぁ。という多少変態的な心理。
こう書くと、この間書いた料理の記事に似ている。
僕が手の込んだ格好良いお皿だったら、汚い盛り方はされたくない。僕が手の込んだ美味しい料理なら、ださい皿に盛られたくない。
なんかそれと同じこと言ってる。
まぁ、結果「日本人に僕の見惚れる女性がいない」に尽きる。なんでこんなに苦手なんだろうか。やっぱり「美意識」があまりにかけ離れているからだ。
アコーディオンを買う時と同様、外国の女性バイカーを見まくってイメージを高める日々。外国人の女性バイカーは「色気」が伴っていてばりかっこいい。
余談になるけれど、日本のYouTubeは「巨乳」を強調した下品なYouTuberが増えていてまじ気持ち悪い。外国人の女性バイカーは谷間なんて普通に見えてるけど、なんだろうあの下品とカッコ良さの違いは。
で、こんなムカつく心情の要因は。
「俺の方が出来るから早くそこよけろ」という嫉妬です(/-\*)
「僕が一番バイクに似合う」と思って思って仕方ないから、似合ってない(僕の美意識にそぐわない)女の子ばかりうじゃうじゃとネットにいて、〝バイク〟〝女〟てだけで注目されて、「そろそろ僕が通りますよごめんね!」とか思ってる僕の汚く素直な部分。
よく言われるけど、そうやって嫉妬したりムカつく時は「もうあなたはそうなれるんだよ」ということなのであと少しの踏ん張りだ。
今年はそんな「ムカつく」ことを無くすのが目標だ。正しくいえば、「僕がムカついてしまう人間」を僕の中から排除する。
もう「本物」を見ないと僕は感動しないし、中途半端なモデルやダンサーやテレビに出てる人を見ると「ちょっとそこどけろ」と言いたくなる。
ある意味で「僕はそこに(それより上に)いるべき人間だ」と思い込んでるからこその現実とのギャップだから、思考はもうそこにいるということ。体がそこに行くのにあとちょっと。
まじであとちょっと。待てない。
今までおとなしーく黙ってきたので、急に表舞台に立って「あの子はなにものだ!」となる近い未来が待ち遠しい。
目には僕がカッコイイと思う女性しか入れたくない。
日本は男も女も「巨乳」に執着しすぎだし女は胸の魅せ方がまじ汚い。
「あーきめーあいつもきめー」
「こいつ下品すぎきめー」
と言ってる僕は美しくないので、「この人かっこよすぎーこうなりたい」「男だったらこんな女がいいー」とキレイな心でいれるように僕が素敵だと思う女性しか目に入れないようにする。
それから、やっぱり、
ピアノが上手い人はごろごろだけど、「ピアノ上手いなー。あ、料理も出来るんだ。え、あ、バイクも乗ってるし!と思ってたらこいつサーフィンもするんかい!(今年始める予定)」
…
「出来ないことないんかい!」
ていう多彩性は誰にもマネできない自分だけの価値になるので、そうなったらもう「無敵」だね。
とりあえず、もう海外のYouTubeやInstagramでしか女性に関しては見ないようにしよう。
たいよう
今日も太陽は昇った。
真っ白な部屋。天井から流れる穏やかなピアノと女性の歌声が、ぼんやりとした朝日と優しく共鳴している。
この穏やかさとは正反対の、変な夢ばかり見た。
感情が爆発、というより静かに激しく啜り泣いている僕を、どこにも安堵させる場所がなく、一人で悶々としている夢だった。本当は知人や友達に泣いた声を抱きしめて欲しいのに、俺の弱みなど入っていく隙もないテンションの高い女の子についていく俺だった。
地球がおかしくなったり破滅に向かわない限り、不変的にいつも居てくれるのは太陽や月、星、空、雲。けれど夜を歩く大人達で、「星が綺麗だね」「満月だね」と気付ける人はどれだけだろう。真っ黒な煙が続く戦争中や、闘病生活の簡素な部屋にいれば、一日の朝日の美しさは生きている大きな喜びとなるのに、だ。太陽がいなくなんなきゃ、あいつがどんだけ凄いか、分かんない。
僕らはいつも。いつも、いつになっても失わなければ解らない、愚かで愛おしく、馬鹿な生き物だ。
それでも、「いなくならないと私の価値が分からないのね!」と不貞腐れずに毎日燦々と照り続ける太陽に僕はなれるだろうか。
死ぬ間際、沢山の人間に感謝をする人ばかりで、地球や自然に感謝する人はどれくらいなんだろうか。分からないけれど、家族や友達が「今日も明日も生きている」と当たり前に何も疑わないのは、ひょっとしたら「太陽が登る」くらい本当は奇跡で、あまりにいつも居てくれるから自然に感じてしまう、おんなじような存在なんじゃないかな。
太陽はまだしも、夜空にどれだけギラギラと輝きを放っても注目されない星でさえ、何も文句を言わずにただいてくれる。なにも僕達の為に生まれた訳でも輝いてる訳でもなく、「ただそこにいる」のかもしれないけれど、星がない夜空より星がある夜空の方がずっと美しい。
枯れていく落ち葉や真っ白な雪は無くても困らないけれど、あった方が美しい。「僕が雪だったらたまにしか降らずにみんなに喜ばれるくらいがいい」と前に書いたのは、子供の頃は誰でも喜ぶ雪でも、降りすぎたり雪かきの必要な人には邪魔な存在になるからだ。
そういった意味では、日焼けで嫌われても物理的に誰にでも必要な太陽と、喜んでくれる人は大いに喜んでくれて嫌がる人には唾を飛ばされる絶対的に必要ではない雪なら、僕は雪を選ぶかな。
いやいや、多くの人に溜息をつかれて避けられるのなら、「今日は天気がいいね」くらいでも多くの人が微笑む程度の姿を静かに見守る太陽の方が良いかな。
でも僕はひねくれてるから、ワンシーズンしか姿を出さない「珍」な生き物でいたがるんだろうなぁ。
なんて書いていたら太陽が隠れてしまった。
僕の大好きなコンクリートの壁の向こうに。