永遠の夕日
生まれてから死ぬまでずっと夕日の空だったら、その美しさにずっと見惚れることは出来るだろうか。
僕はきっと、「YES」だ。でも多くの人は美しい美しくないのジャッジマンにすらならずに「見なくなる」(興味がなくなる)のだと思う。
世の男が何百人、何千人と「あの女優と付き合いたい」と願い続けられるのは永遠に叶わないからであり、女優が世の男から何百人、何千人から「付き合いたい」と言われ続けられるのは叶えさせられないからだ。
雨の空しか知らなければ、雲ひとつない青い空を人は願うけれど、生まれてから今日まで青い空を毎日見ていれば「明日も晴れてくれ!」とわざわざ願うことはしない。「何年かぶりの雪」が明日来るかなどまさか考えず、当たり前なことは願わない。
それと同じようなことで、
美人ばっかの世界にいる美人より、ブスばっかの世界にいる美人の方が希少価値が上がり目立ち、競争率(需要)が上がる。下手したら美人ばっかの世界にいる「希少なブス」もコアなファンが出来ると思う。
夕日の話をしていたのにまた女の話になってしまった。夕日の話はもう終わり。
言いたいことは、「競走できる相手がいない」と思っている日本の街を歩いていて目立つのはもはやなんも面白くない。分かりやすく言えば、「美人ばっかの世界(美人が当たり前)でも希少価値があり求められる(目立つ)」そこまで行きたいということ。
女優やモデルやアーティスト達の横に立っても、己のオーラで眩しくて周りの有名人達が見えなくなるくらいのオーラがほちい。そこまでいくと「誰と競う」とかそんなもんはなく「ただ激しく自分を好んで、ただ激しく自分を貫いているだけ」→結果それが「誰にも出せないただキレイとか美人とかそういうんじゃない」真似出来ないオーラに繋がるんだろう。
美意識はもうその辺の子の100人分くらい背負って「美しくないと生きている意味がない!」(ホントは違うよ)ハウル状態だから、己を貫いた生き方に今年は意識を集中させたい。その為にはひたすら好きなことをするのだ。
そんな生き方を出来る人もまだ少ない日本では、そんな生き方をしただけで十分「おまえ、自由人だな」と注目を浴びる。じゃあ果たして、全員がその生き方をしたら全員がピカーん!と輝くオーラを放つか?といったらそうでもない。(みんなキレイにはなるけどね!)
たとえば、ゲーム好きで四六時中ゲームしている人は好きなことをやって己を貫いているのに、パーっ!と周囲を溶かすような熱いオーラはある?と聞かれたらどちらかと言うと髪はぼさぼさ、顔は油っぽい、もごもごした喋り方、よくあるニートの図を想像する。畑が好きで畑を耕すおじいちゃんは素敵なオーラはあっても、アーティスト的なオーラはない。
つまり見た目(ここではオーラ的なもの)は「生き方に似合うようになる」ということか。
“己を貫く ”の他に、強すぎて強すぎて外に出さないとパンクしそうな感情があって、それを「私の身体という小さい身体では抱えきれないので世に吐き出させてもらいます。」ていう状態がアーティストだと思う。
だからゲーマーや畑耕しおじいちゃんのオーラが決して腐ってるわけじゃなく、好きなことしてキラキラしている、にプラスして「この身体で表現するんだ」という強い意志の持った人は見た目にも大きなオーラが備うんじゃないかと。
そして、抱えきれなくなったう〇ちをただ排泄するだけ、ていう行為を「芸術的な形で生み出せるだろうか」とか「かっこいいポーズで出してみようか」なんてことは考えずに、ただただ内にあるものを外に出しただけ→それが格好よく映る、ていうのが本物のアーティストじゃないかな。だから「カッコ良さ」を求めて生きるというより、そう生きるその姿こそがカッコイイ。誰にも真似出来ないカッコ良さなのは、こうして後からついてくるというカッコ良さの「備わり方」が違うからだ。
「売れる物」を作ることは勉強すれば誰にでも出来ること。
自分の教科書にも他人の心の中にもどこにも載っていない「自分の中にあるものを外に産み出す」という作業が出来るのが〝表現者〟。
その表現が周りの人に「私だけじゃなかったんだ!」と思わせて共感を得るのも〇。でも僕は「こんな考えの奴(変な奴)がいるんだ!」と今まで狭いと思っていた世界観を広げられる人になりたい。
「変えてんだこの世界を!」と反発精神の塊みたいな歌を歌う気もないし、「おいみんな目を覚ませ!」と煽る気もない。勝手に僕は自分の小さな体内では抱えきれなくなった「感情」「思考」を排泄をすることだけに熱を出し、それを見た誰かが勝手になんか感じてくれればいい。じゃないと便秘になって他の仕事も出来なくなる。
見た人にとって勿論僕という存在が人生のプラスになれば光栄だけれど、「こいつきめぇ、私の方がマシね。」と思ってくれるだけで僕に興味があるのだから嬉しい。僕がいま誰かに嫉妬して頑張れるように、「この子だったら私の方がイケる!」と誰かの輝きへの糧になるならそれはそれで良い事だ。
夕日の話とかもうどうでも良いし、響きが気に入ったからタイトルに利用しただけ(笑)
「周りの有名人のオーラを食う」という、まさにそんな理想の動画が、あった。女王蜂アヴちゃん。ようちぇっく。
苦手な女が誰よりも多い僕は「女」という生物への美意識が異常に高いだけ、やねん。
早くバイクに乗りたい。
今日は「良い子」のブログじゃない。
僕の感性的に、料理やピアノはギャップが必要で似合わなくてなんぼ。「似合わない女」が出来るからこそカッコイイ。似合う女じゃつまんない。対してバイクは「似合う女」の方がカッコイイ。
もう勝手なただの感性です。
そんなことを言ったら、純粋に好きな物を好きと言っている人を全否定するような言い方になるし、美人じゃなきゃバイク好きになったらあかんのかい!となるから「やめてください」と言ってる訳じゃない。
バイクは別に美人に乗られて嬉しい!とかブスに乗られて「俺の絵が汚くなる…」とか思ってないと思うが、僕がイケメンなバイクとして生まれたのなら僕をより格好よく映してくれる美人に乗って欲しいなぁ。という多少変態的な心理。
こう書くと、この間書いた料理の記事に似ている。
僕が手の込んだ格好良いお皿だったら、汚い盛り方はされたくない。僕が手の込んだ美味しい料理なら、ださい皿に盛られたくない。
なんかそれと同じこと言ってる。
まぁ、結果「日本人に僕の見惚れる女性がいない」に尽きる。なんでこんなに苦手なんだろうか。やっぱり「美意識」があまりにかけ離れているからだ。
アコーディオンを買う時と同様、外国の女性バイカーを見まくってイメージを高める日々。外国人の女性バイカーは「色気」が伴っていてばりかっこいい。
余談になるけれど、日本のYouTubeは「巨乳」を強調した下品なYouTuberが増えていてまじ気持ち悪い。外国人の女性バイカーは谷間なんて普通に見えてるけど、なんだろうあの下品とカッコ良さの違いは。
で、こんなムカつく心情の要因は。
「俺の方が出来るから早くそこよけろ」という嫉妬です(/-\*)
「僕が一番バイクに似合う」と思って思って仕方ないから、似合ってない(僕の美意識にそぐわない)女の子ばかりうじゃうじゃとネットにいて、〝バイク〟〝女〟てだけで注目されて、「そろそろ僕が通りますよごめんね!」とか思ってる僕の汚く素直な部分。
よく言われるけど、そうやって嫉妬したりムカつく時は「もうあなたはそうなれるんだよ」ということなのであと少しの踏ん張りだ。
今年はそんな「ムカつく」ことを無くすのが目標だ。正しくいえば、「僕がムカついてしまう人間」を僕の中から排除する。
もう「本物」を見ないと僕は感動しないし、中途半端なモデルやダンサーやテレビに出てる人を見ると「ちょっとそこどけろ」と言いたくなる。
ある意味で「僕はそこに(それより上に)いるべき人間だ」と思い込んでるからこその現実とのギャップだから、思考はもうそこにいるということ。体がそこに行くのにあとちょっと。
まじであとちょっと。待てない。
今までおとなしーく黙ってきたので、急に表舞台に立って「あの子はなにものだ!」となる近い未来が待ち遠しい。
目には僕がカッコイイと思う女性しか入れたくない。
日本は男も女も「巨乳」に執着しすぎだし女は胸の魅せ方がまじ汚い。
「あーきめーあいつもきめー」
「こいつ下品すぎきめー」
と言ってる僕は美しくないので、「この人かっこよすぎーこうなりたい」「男だったらこんな女がいいー」とキレイな心でいれるように僕が素敵だと思う女性しか目に入れないようにする。
それから、やっぱり、
ピアノが上手い人はごろごろだけど、「ピアノ上手いなー。あ、料理も出来るんだ。え、あ、バイクも乗ってるし!と思ってたらこいつサーフィンもするんかい!(今年始める予定)」
…
「出来ないことないんかい!」
ていう多彩性は誰にもマネできない自分だけの価値になるので、そうなったらもう「無敵」だね。
とりあえず、もう海外のYouTubeやInstagramでしか女性に関しては見ないようにしよう。
たいよう
今日も太陽は昇った。
真っ白な部屋。天井から流れる穏やかなピアノと女性の歌声が、ぼんやりとした朝日と優しく共鳴している。
この穏やかさとは正反対の、変な夢ばかり見た。
感情が爆発、というより静かに激しく啜り泣いている僕を、どこにも安堵させる場所がなく、一人で悶々としている夢だった。本当は知人や友達に泣いた声を抱きしめて欲しいのに、俺の弱みなど入っていく隙もないテンションの高い女の子についていく俺だった。
地球がおかしくなったり破滅に向かわない限り、不変的にいつも居てくれるのは太陽や月、星、空、雲。けれど夜を歩く大人達で、「星が綺麗だね」「満月だね」と気付ける人はどれだけだろう。真っ黒な煙が続く戦争中や、闘病生活の簡素な部屋にいれば、一日の朝日の美しさは生きている大きな喜びとなるのに、だ。太陽がいなくなんなきゃ、あいつがどんだけ凄いか、分かんない。
僕らはいつも。いつも、いつになっても失わなければ解らない、愚かで愛おしく、馬鹿な生き物だ。
それでも、「いなくならないと私の価値が分からないのね!」と不貞腐れずに毎日燦々と照り続ける太陽に僕はなれるだろうか。
死ぬ間際、沢山の人間に感謝をする人ばかりで、地球や自然に感謝する人はどれくらいなんだろうか。分からないけれど、家族や友達が「今日も明日も生きている」と当たり前に何も疑わないのは、ひょっとしたら「太陽が登る」くらい本当は奇跡で、あまりにいつも居てくれるから自然に感じてしまう、おんなじような存在なんじゃないかな。
太陽はまだしも、夜空にどれだけギラギラと輝きを放っても注目されない星でさえ、何も文句を言わずにただいてくれる。なにも僕達の為に生まれた訳でも輝いてる訳でもなく、「ただそこにいる」のかもしれないけれど、星がない夜空より星がある夜空の方がずっと美しい。
枯れていく落ち葉や真っ白な雪は無くても困らないけれど、あった方が美しい。「僕が雪だったらたまにしか降らずにみんなに喜ばれるくらいがいい」と前に書いたのは、子供の頃は誰でも喜ぶ雪でも、降りすぎたり雪かきの必要な人には邪魔な存在になるからだ。
そういった意味では、日焼けで嫌われても物理的に誰にでも必要な太陽と、喜んでくれる人は大いに喜んでくれて嫌がる人には唾を飛ばされる絶対的に必要ではない雪なら、僕は雪を選ぶかな。
いやいや、多くの人に溜息をつかれて避けられるのなら、「今日は天気がいいね」くらいでも多くの人が微笑む程度の姿を静かに見守る太陽の方が良いかな。
でも僕はひねくれてるから、ワンシーズンしか姿を出さない「珍」な生き物でいたがるんだろうなぁ。
なんて書いていたら太陽が隠れてしまった。
僕の大好きなコンクリートの壁の向こうに。
寝ても覚めても、いやむしろ寝ないで料理したい。
は嘘で、どっぷり一日中、仕込みや長時間何かを煮込んで出汁を取ったり、合間に料理本を読んだり、大好きなステンレスと「作業」の空間と音だけに囲まれたい。それだけで疲れ果てて一日を終え、ベッドにダイブしたい。誰かに食べてもらうのは翌日でも良い。(出来たてで)
少し前まではBGMとして音楽が必須だったけれど、今は「曲を流す時間が待てない」くらいにさっさと調理台や料理本に食いついている。洗い物は誰かやってください♡
そんな今でも音楽を意識的にかけるとしたら、バレンタインのお菓子だったり、大切な誰かにあげるプレゼントの場合だ。「音楽を聴かせたコーヒー豆は味が違う」なんて話もあるように、それを受け取る人の好きな曲を食材に聴かせたりする。
朝方、5時。
自分が料理を好きだなんて知っていたけれど、経験や知識が無い状態では恥ずかしくて言えなく、ようやく堂々と「趣味は料理です」と言えるようになった今。「はっ!」とする様に気付いてしまって眠れない。
‘趣味’ や ‘好き’ を通り越して、
料理への熱意や愛は「変態的だ」と。
先日バレンタインがあり、2週間前から前々日まで、「まじいらないよなほんと気持ち悪いもういらなくね」と100回くらい嘆いていたのにも関わらず、前日になると目の前は本屋さんのお菓子作りコーナー。「家でできる!」とか「オーブンで簡単!」みたいなのには一切触れずに、家で再現出来んのかも分からないどこかのケーキ屋のお洒落すぎた本を買う。
操られたかのように菓子材専門店に行き、操られたかのように厨房(家のキッチン)に向かう。ケーキの土台は勿論、中の層やクリーム、全部で5つくらいパーツを作る。しかも生地を寝かせるやら凍らせるやら、まるで自分の子を妊娠してるかの如くどこまでも愛情と手間がいる。
ばちっばちに恋してる恋多き乙女達に「これを好きな人に作ってください」といってもおそらく2割くらいしか残らない気がする。それくらい大変だった。
結果は綺麗に出来たけれど、生地を寝かせている間に夢でもケーキを作っている自分がいた。料理は多少のミスは後からどうにでもリメイク出来るけれど、お菓子作りは半分が算数だと思うくらい、数字の正確さの勝負だ。
そして今日まで、また風邪をひいたのに(多分ケーキ頑張りすぎてw)またすぐにキッチンに立って包丁を握りたくなっている自分をぼんやり見つめていると、この忙しいバレンタインを思い出し…。
「…あ。小学生の頃から、“子供っぽい”、“手作りくさい”チョコレートはう〇こだと思って、高級感あるお店みたいなチョコを作ってたな」
「あの頃から母の“これでいいしょ!”には耳も傾けずに完璧にこだわってたな」
と、あの頃から既にそうだったことを今知った。
絵が好きピアノが好き運動が好きとか他のことはよく知っていたけれど、料理は「凝り性」という方が幼い頃は強く出て、そりゃ知識も経験もないし幼い子がスピーディに出来るはずがないのだが、僕の性格からして「凝る」=「大好きじゃないと出来ない」ということを気付いてあげたかったなぁ。
ただ、今こうして自分の家で自分好みのキッチンで調理が出来るというのは最高に幸せだ。
一時期副業になりそうだった似顔絵やイラストが「好きな人じゃないと描けない」と分かったように、ひょっとしたら料理も「見知らぬ人にはここまで凝れない」と思うかもしれない。僕の料理がどこへ、誰へ向かうかは分からない。今は目の前にいる大好きな人へ(自分を含め)、同時にその食材や死んだ生き物達への為にある。
次から次へと、僕の料理で感動してくれる人がいる。
ピアノと料理の「好き」を比べることは出来ないけれど、僕のイメージではピアノは「この曲は絶対弾けない!」と思っても時間を費やせば必ず弾ける努力の鏡のような存在。というのは今回のお菓子作りにも言える。
ピアノと料理に言えることはそれを弾けた(作れた)からと言って終わりではなく、20回30回と弾けば弾くほど味が変わったり安定したり、「ここにはこれが合うかも?」と自分の感覚を混ぜて自分の曲(レシピ)が出来る所だ。例えるならば楽譜通りの正確さが求められるクラシックがお菓子作りで、知識や基盤がしっかりある上で柔軟な発想で遊ぶジャズが料理。(知識のあるパティシエは遊べると思うけど)
僕の好きなことは結局同じだなと思うのは、料理好きなら当たり前だがお皿や本当なら食べる空間までデザインしたい。それはピアノでも同じで、一人で黙々と練習してきた物を人様に差し出す時は、その物が最も美しく在れる姿が良いと思うので、自分に似合わなかったり絵的に美しくないストリートピアノはあまり弾きたくないのだ。
どれも似ている。
「料理好き」といって驚く人はもう飽きた。こうやって見たら、全部同じことだ。だから僕は「料理好き」と言っても納得してくれる人が好き。単にギャップとして扱われるのは良いけれど、料理出来る?とか料理=家庭的とか意味わかんない風習はやく消えて欲しい。
優秀なピアニストにしたら、ピアノの世界が何より奥深いと言いそうだが、僕にしたら料理の方が終わりも正解もなく、それは食材1つにしてもそうだし、蒸し方、焼き方、盛り方、そして国や文化、お皿、空間。知識にも作り方にも食べ方にも果てがない。
一緒に食べる人だって大事だし、死んだばあちゃんが作ってくれた煮物だとか、母の味、ピアノと違って生まれながらにして万人の生活に“入っている”ものだから色んな色がある。また一つ一つ産地なんて見たら感謝しきって食い始まらない。
毎度の食事をすんばらしくしなくても良いし、僕だってピアノに夢中な時は食べなくてもいい。ジャンクフードを食べたい時もある。けれど「一食」にお金や愛や時間をかけられることは、またそれを愛する人と分け合えることはどんなに美しいだろうと想像する。
人間の胃袋の大きさは何故このくらいになったんだろう。なぜ食べ過ぎると太り、太ると醜いと思うのだろう。
そうでなければ果てしない食欲に、果てしない植物や動物の命が連鎖しまくる世界だったかもしれないが、まぁ一日に1回でもテーブルに並ぶくらいの量を丁度いいとするこの胃袋のサイズでありがとう、と思いたい。制限があるからこそ工夫をしてより美味しく、美しくしたり、食べるまでの景色を大切にしたいと思うのだ。
まぁ、日本人の多くは食べ過ぎだと思うけど。一日一食の人ですら、数えきれない日数を生きるのに「毎日好きな物食べて良いですよ♡」って、神様優しすぎね?て思う。
そしたらこの地球という大地で生まれ育った植物だったり動物だったり、○○さんが作った○○だったり、国産国産と謳いすぎずにたまには日本の反対側「オーストラリア産」を愛してみたり、とか。地球に生まれたのを楽しもうぜごっこをしたい。
結果、料理ってまじ素晴らしい。
かかるのは食費と時間だけで、同じ材料を使ってもそれぞれの食べ物達の「活き方」や「最大限の魅力の出し方」(個性)を知ってあげていれば、みなが最高級に魅力的になって裸、またはレタスのドレスにくるまって決めちゃったりする豪華なパーティーだ。
みんなの衣装替えの時間はたしかに「手間」であるが、それを“めんどくさい”という意味で手間と呼ぶのは僕の中の料理に対する手間の意味とは真逆の位置にある。
なんでこんな変態的になってしまったのかよく分からないけれど、僕にしたら「料理を好きにならない方がどうかしてる」ってくらい(笑)、生きる喜び、生きさせてもらってる喜び、一緒に食べられる人のいる喜び、として、当たり前のことに感じてしまっている。
沢山の食材の「在り方」の知識をたくわえながら愛でるように料理をする人や、テーブルに出てきたお皿一つからありとあらゆる奥深さを感じられる感性のある知識人、狭い食卓と厨房から深い美を感じざるを得ない食美人を僕は「知性のある」と表現します。
好きなことをまた一つ思い出せて良かったです。大好きだ。
【導く天使】僕と彼女と車椅子
ぼくは二週間ほど風邪をひいた。そんな時は100パーセントの確率で頑張りすぎや我慢が原因だ。そんな自分の体などすっかり熟知してきたはずなのに、まだこうして体にサインを出してもらわなければ体の声を聞いてあげられない自分にがっかりする。けれども、やはり僕の体は優秀。よく出来ているな、と思った。
いつもは頭を使いすぎた上の頭痛や、言いたいことを言えないことからの喉の痛み。病院へは行かずにひたすら死んだように眠る。でも今回は下痢や動けないくらいの倦怠感、めまい、目の充血、色んな症状がごっさりと来たので変な病気かと思い診てもらった。
結果ただの風邪だったけれど、いつもと違う症状に不安な僕は薬という物体を信じ込むように飲んだ。フルーツやスポーツドリンクは自然に体が欲しがるし、熱や咳や痰は身体が菌やウイルスと闘う上で必要だからそうなっているのに、その必要な体の機能を人工的に止めてしまうのは体に申し訳ない。
休息を求めて風邪をひかせてくれた体に、またもやその声を無視して薬で押さえつけようとする行為は辛いものだ。それでも何らかの薬を飲む時は、その薬を信じ込める時だ。辛すぎる場合は、「これを飲んだら早く治るんだ」と思いたいものだ。
ぼくはベッドに眠った。
一時間で起きると、ぼくのベッドルームに女神様みたいな天使がいた。優しく素敵な40代くらいの女性の声で、
「やっと気付いたのですね。大変だったでしょう。次のステージはもっと楽しいですよ。」
明晰夢の様に妙にリアルで、微笑んだ声がした。
というのも眠りにつく前、長い長い瞑想をしたのだ。今の僕という人間の性格や物事への考え、感情、それらを形成してきた幼少期からの辛かったこと、本当はこうしてほしかったこと、の寂しさを弱った身体と共に再び抱いたのだ。
すると僕にとっては強烈な気付きがあり、「だから僕はこの道を辿ったのか!」(○○ということを気づく為にこうなっているのか!)と頭上にヒラメキ電球を浮かばせながらすやすやと寝たのだった。
多くの大人には「インナーチャイルド」という成長しきれてない、または子供のままの自分(性格)がその人の中に残っていると僕は思うが、自分にそれがあると分かりつつも向き合うのは恐いし、面倒くさいし時間がかかるしで無視してきた。
けれど風邪になり弱ったことで自然と向き合わざるを得なくなった。…と、表現したらいいのか分からないが自分の意思と関係なく自然に行われた。
そして天使が出てきてから今日まで、可笑しなほどに仕組まれているようなことが次々起こる。全てが繋がったのは今日だけれど、時系列で書く。
・とあるショーを観に言ったら、宝塚の様な格好いいダンサーさんがいるのを差し置いて、「あなた美しすぎる!!ショーの女性も色んな世界の女も見てきたけれど、あなたが最も美しいわ!!分かってんの??」と、外人女性が狂ったように異常な興奮をしてショーの最中に立ち上がって横にきたこと。
・街中のナンパが下心満載なのがなくなり、「……っ!え!めっちゃ美人じゃん!!」という驚いた物に変わり、飲みの誘いではなく「話せただけで幸せだわ!」的なレベルに達してきたこと
・自分で確信レベルで感じる「もう俺の行きたい世界に行っていいんだ」「てかもうはよ行けって言われてる」感、等
そして、今日。
休日の過ごし方として色んなパターンがあった中、ふと古本屋に立ち寄った。
本棚は高く、僕でも一番上は台に登らないと取れなかった。いつも通りかるく数冊漁っていると、視界の左端に車椅子の女性が映った。僕のいる通路を通りたいのかもしれないと思い、又、「上の本読みたかったら取れねぇよなぁ」と思い、声をかけるタイミングを読んでいた。けれど、女性の目の動きや手に取る本の位置を見ていても、どうやら上の本には目をやらないので黙っていた。
すると気づいた時には、その女性から声をかけられていた。
「海外に行きたいの?」
僕は‘世界の美しいお城 ’を手に持っていた。会話の始まりは外国人とのコミュニケーションの始まり同様に自然だった。なんだか僕には彼女が神様に見えた。
そこから数十分話した。
「私結構見えるのよ。あなたのオーラが凄い。最初から気になってたの。あなたなら話が通じるかなと思って、ちょっと試したの。」
僕「ずっと声かけようとしてたんだよ(先にやられたー!けどそういうことかー!)」
彼女は「そんな気を使ってくれる人は何百人に一人よ、あなたみたいな人もいるのねぇ」と言い、続けて僕の力強い眉毛や目の力、目の動き、人生経験から成る顔の造りを褒めるに褒めてきた。
僕の性格や今まで苦労したこと、したい生き方等お見通しで、ショーで会った外人の様に、「こんなとこにいる場合じゃないのあなたは!早く自分を信じて動きなさい!」と言わんばかりな本気な目だった。
もう沢山沢山、本屋で話すことではないことまで話していたけれど、僕の感覚ではまるであの時、僕と彼女と車椅子は他の人に見えていなかったような、そんな気すらする。
面白かったのは、「え、このタイミングでバイバイなの?」という話している最中に彼女が車椅子でバックを何度もしたことだ。聞けば、「パワーが凄すぎるのよ」という理由だった(笑)
今日もすっぴんにマスクだったけれど、どうやら最近気付いたがオーラとはばっちりメイクやファッションを決めたときでなくとも出るらしい。彼女は「歩き方や立ち方」と言っていた。
少し前もタクシー運転手が僕を見て感動をして、「タレントさん?オーラが…」なんてことや、スーパーやどこででも知らない人にタレントかダンサーと言われる。
こんなにどこででも老若男女問わず話しかけられたり、出会ったり、友達になったり、名前や顔を覚えてもらう才能は僕は格別だ。
僕はもう今、本当に自分を信じていいし、何度も自分のパワーを知っていたくせに確信や覚悟がなかったけれど、信じられるのがやっと今、なのだ。
随分長くなってしまったとも少し思うが、全ての出来事がこれからの未来に役に立つ。仮に一年早く映画に出れば、その一年分味わった苦悩や涙の重さ分は演技が軽くなるが、一年若いからこそ出来る容姿や演技は見逃したことになる。
ドラマや映画を見て、「うわ、絶対これ俺の方が良かったやん」と思う人なんて沢山いるけれど、焦らなくて良いのだと自分に言い聞かせる。
そして映画やメディアに出ることには拘らず、僕の最終的な目標や使命に目を向けるようにする。
車椅子の彼女が、最後の方に、
「自分をよく知るのよ。」
と言った。
僕は
「安全運転でね。」
と言い電話番号を交換し、ハグをした。
別れてから、思えば彼女の目線からは一番上の棚の本なんてそもそも見にくいよな、と思った。
僕は周りに大勢の天使が僕を守ってくれてるような感覚に浸かり、もっと気持ちを高めようと僕を覚えてくれているインド人のカレー屋さんに行った。
インド人の彼も、車椅子の彼女も、僕の笑顔を褒めてくれた。僕は失う自信すらないが、この笑顔がいくら子供っぽくたって自らほっぺを殺すようなことはしない。真顔がこれからいくら美人になろうとも、笑顔は永遠に5歳児みたいな愛に溢れたニッコリでいたい。
ほっぺをもふもふさせながら、ニコニコして家へ帰った。
本当にどこででも出会いがありまくって、スウェットでもすっぴんでもセカンドストリートでもごみ捨てでも気が抜けない。
今年はもっとピアノとアコーディオンと自分を愛しまくった変態になります。