BOKETTO

ヨーロッパ一人旅の記録とひとりごと。

ストリートピアノはきらい

 

また期間限定で、今度は地下鉄の構内にストリートピアノが置かれた。

 

と、ママが教えてくれたけれど、一瞬はテンションがあがるもののあまり気が向かない。

 

ずーっと置きっぱなしであれば、弾きたい人も常に混む訳でもないから、注目を浴びたいだけのドヤ顔ピアニスト達に占領されず、ただピアノに触れたいだけの子供たちもピアノで遊べて雰囲気が良い。

 

けれどどうせ、期間限定で更にはメディアでも放送されて集まるのは、見せつけたいだけのピアニストが多い。もちろん、通りすがりのサラリーマンや、働いている駅員がさらっと弾く姿はストリートピアノの醍醐味であるけれど、どうも求めている雰囲気にはならないのだ。

 

上手く弾ける人ばかりが集うと、上手く弾ける人しかもうその先そこには座れない。そうなってくれば観客も、楽しんでいる訳ではなく突っ立っている人が多く、演奏者と観客、その場一帯がひとつになる、そんな空気は生まれない。

 

この間の別の駅に置かれた時は、最悪だった。行き交う人が足を止める、というよりはつまんなさそうに腕を組みながら棒のように立っている人が輪を作っていた。ピアノを習っていそうな子供たちは顔は真剣でも目が輝いている。いっそつまらないのなら立ち去ってくれたら良いのに。そう思った。

 

拍手は大きかった。前の演奏者達より大きく感じたのはきっと勘違いじゃない。でも、デパート帰りのオバサンの顔は生きていなかった。

 

今回の設置場所はもっと人通りの多い、邪魔にもなりそうな場所だ。

 

2曲ほどしか弾けないのなら、やっぱりカッコのいい腕を見せつけれる曲を弾きたくなってしまう。

 

でも地下鉄の雰囲気に合うのはそれじゃない。疲れきったサラリーマンだらけなら、カッコいいジャズではなくおっとりしたジブリやクラシックにしたい。

 

場を読んで場を創れるピアニストになりたい。

 

そうなるには「おれはこれくらい弾けるんだぜ!」という欲はストリートピアノの場合、僕が求めている空気を作り出すには捨てないといけない。

 

けれども面白さを出すためにも、穏やかなクラシックを弾いたかと思えば180度曲調の変わった明るく愉快な曲を弾いてみたりもしたい。

 

あんなに騒音問題で練習場所の困っていたピアノを、最も騒音であろう場所で弾けるのだ。騒音だと思う人もいる。ピアノの音がだいっきらいな人もいるだろう。それでも行く人は耳を塞ぐことが出来ない。

 

つまり一瞬で大勢の人の耳にお邪魔、若しくは強制的に聴覚を支配してしまえるのがストリートピアノだ。

 

通勤からゆったりした曲はあまり聞きたい人はいないだろう。でも中には穏やかな朝を迎える人もいる。

 

帰宅ラッシュの人をターゲットにしたとて、結局それぞれ聴きたい曲の気分は違う。

 

どれだけその「場」を読み、自分自身(音)がその場に溶けられるかだ。

 

暗い雰囲気の地下鉄に、似合った暗い曲を弾くのも良し、そこで明るく場を変える力だってある。

 

中には感動しすぎなじいちゃんばあちゃんもいたりする。「あの人みたいに弾きたい!」と子供の心を大きく揺さぶることもあるかもしれない。

 

たかが数分の演奏でここまで考えてしまう僕には、まだあまり向いてないような気もする。というか、ここで演奏すればもちろん黄色い歓声を浴びるのは確実だろうが、いずれ僕は必ず有名になる。果たして、今ちょっとでもキャーキャー言われてしまって良いのだろうか?時は必ず来るのだから、今は大人しく練習をしていても良いんじゃないか?

 

そんなことを思って、今日はひとりでピアノを弾こう。

 

 

「ピアノを弾いている時って、常にひとりぼっちなの」

 

映画“羊と鋼の森”で女の子が言っていた。

 

僕もそうだ。

 

ひとりぼっちで散々練習をした上、常に僕とふたりぼっちでいた誰にも知られてなかった音が、突然大勢の人の耳に飛び込んでは喝采を浴びる。それがピアノだ。

 

僕の音はまだ隠れたがっている気もする。

 

これくらいの一時の注目は、必要ないと言っている気もする。

 

数日、ピアノの声を聴いてから決めよう。

 

クリスマス

去年の今頃、ドイツに飛んだ。深い意味は無い。「クリスマスはヨーロッパがいい。」そんなことを言っていた。

 

僕はキリスト教でもないし、この歳になってサンタさんが来る訳でもないけれど、なぜか行事の中ではクリスマスが一番心地よく、わくわくするのだ。

 

ドイツミュンヘンのクリスマスは、僕の大好きなアコーディオンを弾いているおじちゃんがいっぱいいる。みんなサンタのように可愛らしい笑顔で、実に愉快だった。

 

日本のクリスマスマーケットも中々良い雰囲気を出しているけれど、カップルで楽しむものだという認識や“クリスマスぼっち”という言葉が好きじゃない。

 

だからクリスマスらしいイルミネーションもあまり興味がないし、大好きな人と行ったら楽しいだろうけれど、どうしても行き交う人を見て苦手意識が出てしまうと思う。

 

ハロウィンなんかは日本の楽しみ方を見ていたら嫌いになってしまったけれど、周りの意識と違えどクリスマスが好きなのは、きっと僕の中の子供の心の部分がユラユラと激しく興奮をするからだろう。

 

眠れない24日ももう無い。

 

25日の早朝にベッドから飛び出すことも無い。

 

それでも僕はキリストの誕生を祝う訳でもなく、無意味にツリーを飾り、みなで飾り付け、無意味にロウソクを灯して七面鳥をナイフとフォークで頬張る赤と緑とオレンジに囲まれる夜が好きなんだ。

 

きっとこれは、寒い冬だからこそ人や料理、ロウソクの灯火の暖かさを感じられる行事であり、オーストラリアの夏のクリスマスは僕の中ではあまり魅力を感じない。

 

さぁ、年中クリスマスソングを聴いている僕にはとっても心穏やかになる時だ。

 

今年のクリスマスは、むかしむかし、僕にプレゼントを運んできた世界一大好きなサンタさんに、プレゼントを返そう。

 

i love SANATA.

SHE'S / Letter

僕らは大切な人から順番に
傷つけてしまっては
後悔を重ねていく
それでも愛したり
愛されたいと願っている
あなたを守れるほどの
優しさを探している

 

僕らは信じたい人から順番に
疑ってしまっては
自分を嫌っていく
それでも触れたくて
心の奥へ歩み寄る
あなたを覆い隠すほどの
切なさを知りたくて

 

僕らは大切な人から順番に
傷つけてしまっては
後悔を重ねていく
それでも立ち籠める
霧の道を進んでいく
あなたを照らせるほどの
優しさを探している

可愛げ

 

怒りの奥にあるのは、哀しさだ。

 

ぼくが怒りという目立ちたがりの感情に騙されずに、ちゃんと自分のそれに気付ける時は、お風呂かベッドに潜ってピアノの音色に浸った時である。

 

さっきまで荒々しく火をぶちかましていた山から、一筋の純水が流れる様に、そっと川が開かれるかの様に。

 

音、とは不思議である。

 

ぼくは元々、人に怒りをぶつけるというのが下手だけれど、それをぶつける努力をするのでもなく、篭らせる訳でもなく、こうして奥の奥に恥ずかしがって出てこない「哀しみ」というブツをただ抱きしめてやることに意義がある。

 

何しろ、心が求めているのはそれなのだ。

 

確かに、戦争が許せなかったり、自分勝手の政治家が許せなかったり、恋人の浮気が許せなかったり。それは相手への怒りで間違いないだろう。

 

それを間違いだと言える強さも素晴らしいが、それが身近な人への物である場合、そこにあるのは「本当はこうしてほしかったのに」というただ愛というふわふわした感触にただ浸かりたかった、若しくは自分が愛と思って放ったそれを、感じ取ってほしかった、理由なんてこんなもんしかない。

 

それがほとんどだ。

 

もっと素直になりたい。