BOKETTO

ヨーロッパ一人旅の記録とひとりごと。

可愛げ

 

怒りの奥にあるのは、哀しさだ。

 

ぼくが怒りという目立ちたがりの感情に騙されずに、ちゃんと自分のそれに気付ける時は、お風呂かベッドに潜ってピアノの音色に浸った時である。

 

さっきまで荒々しく火をぶちかましていた山から、一筋の純水が流れる様に、そっと川が開かれるかの様に。

 

音、とは不思議である。

 

ぼくは元々、人に怒りをぶつけるというのが下手だけれど、それをぶつける努力をするのでもなく、篭らせる訳でもなく、こうして奥の奥に恥ずかしがって出てこない「哀しみ」というブツをただ抱きしめてやることに意義がある。

 

何しろ、心が求めているのはそれなのだ。

 

確かに、戦争が許せなかったり、自分勝手の政治家が許せなかったり、恋人の浮気が許せなかったり。それは相手への怒りで間違いないだろう。

 

それを間違いだと言える強さも素晴らしいが、それが身近な人への物である場合、そこにあるのは「本当はこうしてほしかったのに」というただ愛というふわふわした感触にただ浸かりたかった、若しくは自分が愛と思って放ったそれを、感じ取ってほしかった、理由なんてこんなもんしかない。

 

それがほとんどだ。

 

もっと素直になりたい。

オーラの出し方

 

昨日街を歩いていたら、もう描いている道を歩けてる自分がいた。

 

みなが振り向いた。

 

自分でもオーラの放ちを感じた。

 

くそなナンパなど寄せ付けなかった。

 

サングラスをしなくとも、

久しぶりに堂々とそれを味わった。

 

“ぼくはこんな所を歩いてる場合じゃない”

 

そう感じた。

 

 

けれどその次の日に、ジャージで少年のように歩き、颯爽と歩いて道行く人の目線を独り占めした昨日とのギャップを楽しむのが好物だ。

 

ぼくが他人を使って行う唯一のあそびは、この他人の目の操りだ。

 

 

365日46時中、「おんなじ女」にしかなれない女は好きじゃない。

 

常に色気しか出せない女も、常にキャピキャピしか出来ない女も、ぼくには飽きるし魅力を感じない。裏表がある、とは違う。

 

ジーンズを履きこなしてクールな女性かと思えば、ふわっとワンピースも着こなしてしまい、中身ですら運転が超上手いけれど忘れ物が多いだとか、ギャップのありふれた女性がいい。

 

 

今日も色んな人がぼくを見て、「めっちゃ可愛い」「スタイルよくね?」だのなんだの言っていた。

 

このレベルにくるまでちょっと時間がかかった。

 

ぼく自身、「街を歩いて振り向く女性」で更に「その後も目に焼き付いている女性」なんて外国を含めて3人ほどだ。

 

あとは、日本だとたまに垢抜けたおばちゃんを結構見る。けどぼくが“見惚れる”若い女性はいない。

 

 

街を歩くだけで、

面白くできた世界だと思う。

 

 

もしもぼくが似合わない、兼、自分のしたくないファッション(=見られることを気にしたファッション)をしていたら、このオーラは消えるんだ。

 

同じだけ露出のある服を100人に着させても、それを着てセクシーで美しくなる女性もいれば、だらしなくふしだらになる女性もいる。

 

唯、ぼくが美しいと感じるのはセクシーな女性だけれど、みんながみんなセクシーさを出して格好よくなる訳じゃない。

 

ふんわりファッションが1番その人の魅力を出す場合もあるし、そういう人がセクシーさを出そうと思えば不思議といやらしくなるように出来ている。

 

また、「私はとってもセクシーよ」とピタピタなワンピースを着ようとも、それが“自分がしたくてしている”場合と、“男性にこう見られたい”という心理で着ている場合とでは周りへの見え方も違ってくる所だ。

 

ファッションとは、「今日の格好変かしら?」と歩けば決して格好良く映らないし、自信満々で自分は美人だと言い聞かせて玄関を飛び出せば、ブスだとか美人ではなく、放つオーラは違うんだとぼくは思う。

 

誰にも、元々持った魅力があるはずだ。

 

 

でもまぁ、どんなファッションをしても8割は姿勢と歩き方で格好良さは決まる。

 

日本だとちょっと姿勢をよく堂々と歩いただけで、自分でも目立ちを感じるほどに目立つけれど、外国だと「溶け込む」だけでちっとも目立ちやしない。むしろ猫背やクールじゃないファッションをしていると悪目立ちする。

 

ぼくが次目指すのは、外国でさえも日本と同じように振り返られる女性になることだ。

 

といっても外人はフィーリングが合うから余裕かな(笑)

 

ただ「セクシー」というのが性の対象として(=ヤリたい)ではなく、男性も女性も“なんて美しいの”と感動させる位置に行きたい。

 

そこに行くには、ファッションだけじゃあどうにもならない。姿勢で誤魔化すことも、メイクで誤魔化すことも出来ない。

 

そんな値じゃない。

 

ぼくなら絶対いける。

 

すべてを解き放ちたい。

 

 

 

ぼくが汚いと思う女性は、あまり目に入れない。同じ空間に重なってしまったら、大人しく逃げること。

 

ぼくが惚れて仕方ない憧れの女性をスマホでもいいから目に入れるようにする。

 

ぼくが知らないだけで、きっと美しい女性はこの世に溢れている。

 

もうその女性達と同じ所にいて良いのだ。

 

人は似合う場所を自ら選んでいる。

 

目醒ます時

僕はこの平和ボケした、というより歴史や真実を知らないでアメリカの思うつぼに踊らされている日本が嫌なんだ。確かに土の下を剥がないで、綺麗な花だけを見ていたらこの国はとても平和だ。けれど引きこもりも自殺の数も、働く時間も働き方も、自己肯定感のない若者の数も、全部全部異常なんだ。

 

真っ黒に塗り潰された芸能界の闇すぎる闇も、3S政策*で洗脳された日本人も、天才が生まれないように抑圧された教育も、ある時から報道しなくなった人工地震も、隠されたHAARPも、ネットがある今誰でも真実を知れるのに。

 

僕は先週、こんな事を下書きしていた。

そしたら今、吉本興業のニュースだらけになっていて妙に繋がり、埋めていた文を掘り返した。

 

感情が込み上げまくった記者会見やそれを見て動くその先輩達、会社に対して何度も「不信感」という言葉を発する当人達。だけならぬ事務所の人々。

 

吉本興業の件についてを綴ろうとは思っていないので思うことは端折るが、「闇営業」という呼び名があほらしいし

 

そして僕は続けてこう書いていた。

 

ディズニーでも何でも、必ず悪者がいてそれに立ち向かうけれど何もファンタジーなことではなくこの地球がそうなっているから人ごとじゃない。

 

だが必死に真実を伝えようとする者は、悪の勢力に簡単に殺られてしまう。悪に立ち向かう人の絶対数が少なすぎるからだ。と言いたいが、「洗脳」されている状態ではそもそも自分達が誰に、何を、洗脳されているか気付いてないのだからそれが一番恐い。

 

世界を救うのは音楽か、愛か、言葉か。

 

 

まとめるのもめんどくさい、独り言のような下書きが溜まっているから上げておこう。

 

(7月22日)

 

 

 

 

そらと子供

 

空は知っている

 

ぼくたちが苦しむ必要のないことを

 

 

僕らは昔しっていた

 

この世は楽しいことしかないことを

 

 

それはどうかな

 

「ちがうよ、んな訳ねぇだろ」

と言う人が沢山いるのを余所に、

 

そうよ〜と楽しそうに生きる人がいる。

 

 

 

校庭ではしゃげる子供が

 

雨で騒ぎ遊べる子供が

 

学校から家の道のりで楽しめる子供が

 

何もわかっていないようで一番この世のなにか大切なことを知っている気がする。

 

景気がどうとか会社の仕組みも礼儀作法もなんにも知らないけど、大人が落っことしてきたキラキラした物を沢山だっこしている。

 

子供にそんな素晴らしい天使のような無邪気さがなければ、「子供」である必要がない。育てる者が人間じゃなくても、大人じゃなくてもいい。クソ真面目になりすぎた「大人」という生き物に大事なことを思い出させてくれるかのように、僕らは随分じじぃばばぁになった後に数十年も歳の違う赤ん坊を抱く。

 

未だに子供は無理やりしつけをするものだと思い込んで「共育」からかけ離れた育児をする親も沢山いるけれど、育児における学びは始まりも終わりも何も無い。親も、子も。

 

育て上げた後に気付くこともあれば、沢山間違えながら愛しながら傷つけながら育て方が変わっていったり、自分の生き方すら見直したり。どんなに偉い上司に人生観を述べられるより時に子供が大きな影響力を持ったりする。

 

大人が子に教えることはダメなことばかりではない。この国が戦争中で危険な国ならまた話が違うが、今の日本に生まれる子供達に何を大人が教えないといけないかって、「大人になるのはこわくないぜ楽しいぜ。」ということだと思う。

 

僕がここへ来るまで、何人もの爺に「大人になることのしんどさ」「仕事の大変さ」「金を稼ぐことの大変さ」を学校でも酒場でも聞かされた。

 

当然それを聞いて大人になんかなりたくない、と思うのが子供であるし誰にも触れられなければお花畑でしかなかった脳内の未来図は見事に枯れ地化する。

 

いつか自分の子供が出来た時、またはどこかの子供と遊ぶ時、遊び方の分からない大人にはなりたくない。

 

子供の目線とは、物理的にも全く違っているから公園の遊具ひとつすら遊園地に見えたりもするし、石ころひとつが大事な遊び相手になったりする。

 

そこにさらに自由な見方と発想があって、砂場には軽々とエジプトとピラミッドを創り上げたりできるんだ。

 

それを分からずに足で踏んずけたり、何それ?ただの山じゃん、と言う大人になりたくない。

 

いつまでもそれを忘れないように、石ころがあればたまに蹴ってみたり、空を見上げたり、星を数えたり、塀に登ったり、無意味に雨に当たってはしゃいでみたり、そんなヤバい奴でいたい。

 

子供じみた危なっかしさの中には、つまらない大人の世界にはない光った石ころがゴロゴロ落ちていたりもする。

 

けど僕はもっと大人の世界を知らないといけない。

 

建前も、フリも苦手で本当に嫌になるけれど生きていく術として身につけなくちゃいけないんだ。

 

でもやっぱり嫌だからその時こそ女優だと思うしかなさそうかな。

 

クロアチアは今日も雨かなぁ。

 

雨の日に滑る石畳でジャンプして遊ぶ子供たちが、光る水たまりよりずっとキラキラしていた。今日もそうだといいな。