BOKETTO

ヨーロッパ一人旅の記録とひとりごと。

休符

 

上手いピアニストは休符がある。

 

下手なピアニストは休符がない。

 

 

上手いピアニストには音の響きと、響いた空間の空気を感じられる余裕があるけれど、下手なピアニストは自分の音を聴くのに精一杯で休符すら感じられない。

 

もっと下手なら、自分の音すら聴く余裕がない。

 

僕はもっと間を作らないといけない。

 

 

 

ストリートピアノを弾いてきた。

 

帰宅ラッシュを狙えば余裕で人が集まったが、少し時間はズレた。

 

撮影してくれる友達を待っている間に離れた地べたにアグラをかいてずっと観察していたが、警備のおじさんに心配をされ仕方なく近くに寄ってアグラをかいた。まさかコイツが後からピアノを弾くとは誰も思っていない。

 

今すぐ席を奪って1時間も弾き続けてやりたいのを抑えて、何人ものピアニスト達を眺めた。ピアノの席が空くことは殆どなく、常に人が入れ替わっている。小さな子供、おばさん、サラリーマン、ヲタクくん。

 

そして色んなことを思った。

 

一つは、ピアノは、「ピアノが似合う」人が弾いているよりもペラペラしたヲタクくんや疲れ切ったサラリーマンの様な「ピアノが似合わない」人の方がカッコ良さが出るということ。おれ的に。すげー手つきがイッちゃってる女の子がいて上手かったけど、なんだか心揺さぶられるものがなかった。

 

 

もう一つは、観衆の集まり方だ。

 

上手い人が弾いてる時は素人も集まる。は当たり前だけれど、必ずしも“上手さ”が拍手や人を惹き付ける力の大小とは比例していなかった。

 

ひとり、ジャズを弾いた男性は間違いがない模範の様な演奏で素晴らしかったけれど、「楽譜従順主義!」って感じでBGMとして聴ければ最高に心地良いが、“観るもの”、“感じるもの”ではないなぁ、と思った。

 

帰り道はサーカスの人が大道芸をしていた。昔見た、同じサーカスの別のお兄さんのパフォーマンスはおれの涙と大勢の観客を自然に掻き集める程、素晴らしく心を揺らすものであったのに、観衆の中から聞こえる彼の声だけ聞いてもその違いは天と地だった。もちろん素通りする。

 

結局ピアノやら大道芸やら道端で何かパフォーマンスをする者は、流れるように歩いている人達を立ち止まらせる力がいる。

 

誰かが程よく客を集めてくれた後を見計らってピアノを弾こうとしていたおれがいたが、本物は0から1を作れる人だろうと強く実感した。

 

客はパフォーマンスが良ければ滞在し続けるし、惹かれなければさっさとまた足を歩かせる。本当に素直なのだ。一瞬一瞬が判断材料にされている。

 

ただ僕は今日、集まってくれた人達と温かい拍手でとても温まった。いつも家で一人で弾いているはずの僕のピアノが公共の場に響き渡るだけでロマンチックだし、会話もしたことのない知らない人たちが僕にスマホを向け、それをまた誰かに見せる…どこまでも面白い糸の在り方があるのはやはりストリートでしか出来ない。

 

僕はストリートライブだけで食っていくようなハングリー人ではないけれど、この温かみがパフォーマー達の心をうんと強く温かいものにする。

 

拍手が鳴る瞬間、振り返る景色は僕にはオレンジ色や黄色に見える。お互いに、温かさやありがとうという愛を受け取り合うのだ。

 

 

アコーディオン担いで、

街に繰り出すそう。

 

 

 

どうにもこうにも

 

一人になりたい時がある

 

 

朝でも夜でもなく

 

ずーっと夜の中で

 

 

終わらない夜に埋もれたい時がある

 

そこにあるのは夜の黒さに紛れて散らばった、黒い音符だけでいい

 

それら全てに優しく抱かれて

 

そっとそのままねむりたい

 

 

だれにも、たいようにも照らされず

 

そっと穏やかに微笑みながら

 

子宮にいた頃とおんなじポーズで

 

ねむりたい

 

 

ただただ

 

なんにも考えず

 

時すら止まって

 

だあれもいなくなって

 

けれど

 

本当は最初から既にそうだったことを思い出したい

 

 

みんな

ひとりなのだ

 

 

ぼくが自分のものだと大事に箱にしまっている愛しいぬいぐるみ達は、人間は

 

最初から誰のものでもないのだ

 

みんな、だれのものでもない

 

ぼくも、だれのものでもない

 

みんなが初めからひとりで

 

今もこれからもずっとひとりなのだ

 

ひとりぼっちとひとりぼっちが手を取り合って

 

また新たな生命を宿しても

 

ひとりぼっちが増えただけなのだ

 

 

けれど最初からみんな

 

ひとつ

 

 

 

だったんだ。

 

 

 

 

 

 

愛をしらぬ人

 

ぼくらは愛し方も

 

愛され方も

 

学校で習うわけでもなく

 

そうなればどう愛されてきたか

 

それだけが

 

自分の中での知っている愛になる

 

 

映画の世界でどれだけ愛を見ても

 

愛を形成する食材は親からの愛に尽きる

 

 

その形が歪であれば

 

それを受け取って育った子も歪になる

 

 

大きければ良いかといえば

 

それが返ってバランスの取れていない愛を知ることになったりもする

 

 

放任主義も過保護も過干渉も

 

「いい子にしなさい」も

 

「100点を取らなきゃあなたはだめなよ」も

 

本当はぜんぶ子が生きてくれてるだけで最高にThank youなのに。

 

愛が子供に伝わっているなら良いけれど、伝わっていない状態で勉強やら何やら押し付けまくっている育児をしている人はぶっちゃけほとんどに感じる。

 

その育児が、愛し方が、子供が大きくなって誰かを愛するとき、その子やその恋人にまでどんな影響を及ぼすのか知っていないんだろう。

 

子が自分でそれに気付けたなら良いけれど、気付けたところで必要なのは母か父、はたまた両親両方なのだ。

 

これには兄弟図も関係しているし、多くの場合は男は母親から、女は父親からの愛を幼少期に上手く受け取れなかった人が多い。よって父親に似たかなり歳上の人しか好きにならなかったり、DVの父を見てきた男が恋人にも同じようにしたり、好きな人が出来ても「このままの私を愛してよ!」と狂うような求め方をしたりする。

 

その暴力も、心の声も、恋人ではなく両親にあてたいのに。“そのままのあなたが好き”という言葉は恋人ではなく両親から言われたいのに。

 

ということを本人も気付かず、恋人とも上手くいかない。ただでさえ盲目的になっているのに、まさか幼少期に問題があるなんて思っちゃいない。

 

そんなことがこの世の中で沢山起こっている。

 

でも別にこれでいいのだろう。

 

気付く人が偉いから早くみんな気付けばいい、と願ったって、DVパパの真似をして恋人に今DVをしている人は、今それをすべきなんだろう。

 

といったら誤解があるだろうが、全ての人が同じタイミングで目覚める訳がない。その人には気付くために必要な過程なのかも、しれない。ひょっとしたら今世ではそのまま、死ぬかもしれない。

 

 

 

 

 

先生が公式を教えてくれないのは

 

公式が分からないとか

 

愛に公式がそぐわないとか

 

そうではなくて

 

愛そのものがなんであるかを

 

だれもしらないから

 

 

そんな人間が次々に子供を産み

 

街には怒鳴って怒鳴って笑っている顔すら想像のつかない親と

 

もっとぼくを愛してよと泣きじゃくる子供がいる

 

 

そんな世の子をみんなまとめて抱き上げたいと思うけれど

 

無償の愛で抱きしめるべきなのはその怒鳴って怒鳴って仕方がない親

 

の方もみーんななのだ

 

 

みんな愛されなかったのだ

 

 

みんな

 

愛されたかったのだ

 

 

今からでも

 

あいされたいんだ

 

 

 

 

 

 

 

ロエベ

 

愛していた財布が消えた。

 

中の現金はどうでもいい。あの財布が誰かに取られたことがショックで病む。

 

仮に30万入っていたとしても、それはまた稼げば良い。また手に入る。

 

あの誰よりも優しい鞣し革だったあいつとの別れが辛くて仕方ない。

 

いつも磨いてあげるほど大好きだったのに、あそこに忘れてしまったのは僕だ。

 

警察に確認をしたら、忘れた場所と全然違うところで中のポイントカードだけ発見されたらしい。イコールもうスられたとしか考えようがない。

 

ちょっとヤバいのは、中に入れていたカードどっちゃらもそうだけれど、他の物だ。

 

渡すはずだった愛に塗れた手紙と、おれの満面の笑みの写真を入れていた。

 

それを読んで、見て、そんな財布を使えるだろうか。

 

人は友達といる時にはついふざけて恥ずかしがって良心も投げ捨ててしまうから、あの手紙もおれの満面のスマイル写真も友達同士で爆笑物にしてくれたんだろうか。

 

だとしたらそれはそれで光栄だ。

 

 

拾ったのが一人だとしたら。

 

あの手紙と写真とバストサイズの書いた下着屋さんのカードを見ては、おれなら使えない。いやクレジットカードのフルネームを見ただけでも使えない。

 

その人がどんな人だか想像できてしまうからだ。

 

カードの名前が“TAKUYA KIMURA”だったとて、その人がキムタクのファンでなければホイホイ使っちゃうんだろう。

 

キムタクのファンでも、それを喜んでみんなに自慢する奴もいる。

 

 

愛着のある物を失くすのがこんなに辛いなら、ぜんぶ愛着のない物にしてしまいたいけれど違うんだ。

 

失ってこんなに悲しい物が、人が、いることはある意味ステキなことなのだ。

 

いや、辛ぇわ。まじで。

 

死んだペットが死んだ時、「飼わなければ良かった」と思うのはうんこだ。

 

拾ったのは想像力のない人間か。

 

財布が帰ってきて、そいつからの手紙と満面のスマイル自撮り写真なんて負けじと入れてくれてたら、そのユーモアは大いに尊敬する。

 

 

プライベートの蓋をことごとく知らない誰かに開けられてしまった。

 

警察よ、頼むから中身は全部いらないから財布だけでも取り返そうぜー。

 

おれにしては、あの財布にしてから初めて数ヶ月も財布を無くさないという新記録を叩き出したが、やってもうた。

 

いつも動こうとする前は、何か起きる。

 

 

黒カレー

 

久しぶりに一人で外食をした。

 

無駄に美味く感じた。

 

 

 

母の手料理を食べる機会もなくなり

 

自分は誰かに作る方で

 

腹が減ればコンビニでは簡単に何でも食べられてしまい

 

 

お洒落なレストランの物理的に美味しい料理も好きだけれど

 

近所の人や昼休みのサラリーマンが集う、おっちゃんが一人で切り盛りしているようなお店には特別愛を感じる

 

 

おそらくそれがちょっと不味めでも

 

なぜだか感動してしまっていた

 

 

人がなにかを料理して食べる生き物で良かった

 

それが家の妻でも店のおっちゃんでもシェフでも、作ってくれる人がいるということはとても幸せなことだと

 

作ってくれる人がいなくなって初めて知る

 

 

たとえそれがコンビニの惣菜でもそれをきちんとお皿に盛り付ける妻だったり

 

たとえばそれが肉と野菜をただ炒めて塩を振りかけただけの物でも

 

 

 

叱られた後にあるバンゴハンの不思議

 

 

BUMP OF CHICKENのこの歌詞が好きだ。