BOKETTO

ヨーロッパ一人旅の記録とひとりごと。

10000時間の法則と運動会の小学生

 

おれがあの日ピアノを弾くと

 

みんなが喜んだ

 

 

おれがあの日パスタを振る舞うと

 

彼は感動した

 

 

おれがあの日アコーディオンを弾くと

 

友人は涙した

 

 

おれがあの日写真を撮ってやると

 

彼女は美しい自分を知った

 

 

 

おれに出会った人たちが

 

おれに出会った良い大人たちが

 

 

あなたに刺激された

 

あなたの生き方に刺激を受けた

 

 

そう言った

 

 

それでもおれが人を感動させた経験は未だ未だ少なすぎる。足りちゃいない。

 

 

 

「まだまだ何でも出来るね」

 

と言われる21歳というレッテルの貼られた僕の裸体は、小学生の頃から色々なことに対して「もう遅い」という感覚を抱いていた。

 

フィギアスケーターになるにはもう手遅れだし、何でもてっぺんを目指したい僕には、4歳からバスケをやっているバスケ少女にはいくら才能があろうと10歳から追いつくのは物理的に叶わないことを悟っていた。

 

かといってどっかの誰かが唱えた「一万時間の法則」を他所に、本物の天才はどんな努力家の努力も醜くなるほど才能がずば抜けていて誰にも真似できないパフォーマンスをするだろう。

 

「一万時間の法則」とは“どんな凡人も10000時間それに時間を割けばその道のプロになれる”。だとか、そんな謳い文句だった。それに対して賛成や否定の意見が分かれているが、僕の考えでは圧倒的な努力でも“補えない部分”を天才は持っているのだと思う。

 

それはスポーツで言えば並外れた身体能力だったり、音楽でいえば“間”を歌える感じ方だったり、「これが大好きなんだ」という誰にも負けぬ想いだったり。

 

“嫌々10000時間それを努力した者”と、“好きで好きで気付いたら10000時間やり続けてしまった者”の結果が違うのは誰しも分かるだろう。

 

 

 

学校では「人を感動させる」ことを学ぶ場面が用意されている。

 

学習発表会や、運動会、合唱コンクール、学校祭。それはつまり「やらなくても良いこと」だ。

 

 

僕は2年ほど前、小学校の運動会を見てとても感動してしまった。

 

カゴに玉を沢山入れたって、大玉をみんなで早く転がしたって、かけっこで1番早く走れたって、白組が勝ったって何の意味もない。

 

この「何の意味もない」ことに一生懸命取り組むことで何を得られるか、何を与えられるか、それを学ぶのがこれら行事の意味だと僕は思う。

 

あの子供達の姿を、「こいつらバカだな」と思わず誰もが応援したくなるのは、子供達が汗垂れ流しながら必死に頑張っているからだろう。

 

ただ、単純に“楽しいから”という理由でそれに一生懸命になれていた行事も、中学生になり「合唱コンクール」が出てくるあたりでやる気のない者が増えてくる。それをやることによるメリット、それをやる意味を考えられるようになったからだ。

 

それでも「ちゃんと歌って!」というクラスに2,3人はいるウザイ系女子の言いなりになって、当日にはクラスが一つになった時。何にも変えられない異常な感動と、また愛情のような物がみんなの間に流れ出すのだ。

 

この時感じるのは、「やらなくても良いこと」を一生懸命やった者にしか得られない達成感、感動、仲間との絆だ。そして、そんな自分達を見て感動してくれる大人達。

 

「一生懸命には一生懸命で応える」が格言だった先生はいつも真っ先に一生懸命になっていたが、そんな先生を見て一生懸命にならざるを得ない僕ら(生徒達)は、マトモな人間なのだろう。今思えば当たり前すぎる格言の浅さと深さだ。

 

 

それだけの為に、それだけの事をする

 

そんなカッコイイ人間になりたい。

 

 

 

 

そしてもう一つ、人生においての大事な教訓がある。

 

 

よく、「合唱コンのやる気のない生徒達をどう歌わせるか問題」で女子はひたすら恐妻のように“なんでやってくれないの!!歌ってよ!”と喚いているがその必要は無い。

 

全員がやる気がないなら全員でボイコットでもすれば良いが、大抵「歌わない子」は数人だ。そうなれば解決策はとても安易で、

 

「歌ってる子達がめっちゃくちゃ楽しそうに練習をしている」

 

という“風景”を作るだけで良いのだ。

 

“歌わなければいけない理由”を並べた所でそれはこちらの勝手でしかないし、向こうにとっては何のメリットもない。

 

向こうは「歌いたくない」のだから、「楽しそう」と思わせるのが鍵である。もっといえば「あの輪に入らないとおれが一人になる!」くらい思わせられたらもう勝ちだ。

 

 

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あの頃、「上手い、上手い」とピアノが評価されることを憎んだ俺は、高校生くらいならそれでライブの誘いを快く受けていたが、「うるせぇ上手さを見せつける様なライブはご免なんだ」とライブをしたことも無い口が言った。

 

それと矛盾するように、「それでも簡単な曲を弾いて下手に思われたくない」と思う自分が同居していた。

 

今思えば若い頃なんて、上手さを見せつけるライブの1回や2回してしまえば良かったと思うけれど、感情の沸点まで感情が達してなかったんだろう。

 

表現したいもの、というより表現しないともう死んでしまう、風に感情が爆発寸前までいって初めてホンモノの声を届けられるアーティストになる。

 

情緒が安定しているアーティストよりも、上手く表現出来なくなれば死んでしまう様な弱さと本気さと孤独さを抱えたアーティストが僕は好きだ。その不安定さの中に生まれる果てしない反骨心、いや一人前の身体には大きすぎた愛から生まれる淋しさのようなそれは、どこの誰が努力しても得られない水玉でもストライプでものい、誰も見たことも無い模様だ。

 

 

 

 

「人を動かす」

 

には何が必要だろうか。

 

 

常に相手の立場によるメリットを考えなくてはいけない。

 

 

「応援したくなる人」

 

とは、それが嫌いで頑張っている者より、それが好きで好きで堪らない人だ。

 

 

「人を感動させる」

 

のは、今の僕にとっての僕への答えは(芸術面で)、感情を爆発させることだ。どんな努力も、それを表現したい気持ちの“爆発”に及ぶ力は産めないだろう。

 

路上で演奏するのに必要なのは自信ではなく練習でもなく、“もうこうせざるを得ない”という命の在り方だ。上手く弾けるかなんて気にしてるうちは表現者じゃない。

 

火山の噴火は誰にも止められない。

 

オナニー

いやはや馬鹿ばっかりだ

なにぶん馬鹿ばっかりだ

どうにも馬鹿ばっかりだ

はなはだ馬鹿ばっかりだ

おおよそ馬鹿ばっかりだ

えてして馬鹿ばっかりだ

 

「結婚は人生の墓場だ」って アインシュタインの真似してアッカンベー

最近結婚した渡辺くんが 自慰していた方がマシだとぼやく

不倫がやめられないまなみちゃんは 「禁断の方がときめくよね」って言う

アダムとイヴが食べた果実なんか 今じゃ1300円で売っている

 

快楽の馬鹿ばっかりだ

肉欲の馬鹿ばっかりだ

愛を知らぬ馬鹿ばっかりだ

アブノーマルな馬鹿ばっかりだ

浮気をする馬鹿ばっかりだ

愛を探す馬鹿ばっかりだ

 

酒飲みながら柿崎くんが言う 「ぜんぶ全部時代のせいなんだ」って

自己弁護が上手な後輩に 論破されて何も言えないらしい

体罰パワハラだと大人が騒ぎたてて それ真似して学校で騒ぐチルドレン

また心と心がバラバラだ ああいとも簡単にバラバラだ

 

声をあげりゃ誰かが批判してくる

それ怖がって縮こまってた僕

心と心を繋ぎ止めたいから 黙るよりは叫んでいく方を選ぶ

 

「運命はして我らを孤立せしむる」と 代助さんはそう解釈していた

自分慰めるのはもうやめだ

自分慰めるのはお預けだ

 

寂しがる馬鹿ばっかりだ

涙流す馬鹿ばっかりだ

閉じこもる馬鹿ばっかりだ

疑い合う馬鹿ばっかりだ

傷つけ合う馬鹿ばっかりだ

遠ざけ合う馬鹿ばっかりだ

 

わからないことがまだ沢山ある

賛成も反対も言えない僕

学ぶことを続けなくっちゃ駄目だ 目を凝らして歌ってこうと思う

 

あなたの声を聞かせてくれませんか 「高橋、お前オナニーって・・・そういうの間違ってると思うよ? この曲よりだったら俺の方がまだ正しい意見あるわ」 心と心をぶつけていこうぜ

もっと もっと

 

そうしなきゃ馬鹿ばっかりだ

顔を出さぬ馬鹿ばっかりだ

名を偽る馬鹿ばっかりだ

知ったかぶる馬鹿ばっかりだ

知らんぷりの馬鹿ばっかりだ

死んだふりの馬鹿ばっかりだ

寂しがる馬鹿ばっかりだ 涙

流す馬鹿ばっかりだ

閉じこもる馬鹿ばっかりだ

疑いあう馬鹿ばっかりだ

傷つけあう馬鹿ばっかりだ

 

愛すべき馬鹿ばっかりだ

 

 

高橋優「オナニー」(弾き語り/「高橋優STREAMリターンズ」より) - YouTube

ものもらい

 

目に麦粒腫がポツ、ポツとふたつできた。

 

夜中に異物感が凄く起き、瞬きが痛くて涙が出たが、こうなって初めて“目”という機能を通して自分がこの世界を“見る”という作業が出来ていることを知る。

 

もしも目が見えなくなれば、僕が行きたがっていたまだ行ったことのない様々な景色は見れない。それでも僕はそこに行くだろうか。

 

僕は目で感じたいのだろうか。

 

五感のうち視覚が人間の感覚のほとんどを占めているのだから、

 

「外国の匂いを感じるために」とか「外人の身体に触れてみたいんだ」とか、視覚以外の理由で人がどこかに行きたがる人は少ない気がする。

 

「死ぬまでに見てみたい」

 

という理由がとても大きい気がする。

 

 

目が見えなくなり、耳でもっと世界を体感せざるを得なくなれば、もっと音楽を聴いたり、街を歩くだけでも今まで聞こえなかった様々な音たちが真っ暗な視界に広がるのだきっと。

 

 

ものもらいは麻酔をして潰してもらったが、もしこれがもっと酷い病気で今日失明なんてしたら、今までの人生、どれだけ視覚を雑に使っていたか分かるのだ。

 

もっと見たかったものがある。

もっと大事に見つめていたかったものがある。

うざかったあの瞬間のあの人の顔でさえ、もっと脳が記憶してしまうくらい凝視してやるべきだった。

 

なんていうように。

 

 

目でこの世のキレイな部分も嫌な部分も見れてしまうからこそ、僕は色んなことを無駄に考えてしまうが、目の見えない人が今日目が見えるようになったってこの世のキレイな部分だけを切り取って見ることは出来ないのだ。

 

それでも、自分が妊婦になれば街の妊婦が増えたように感じるように、自分がピアノ弾きであれば「ピアノ」という文字に過剰に反応するように、視界に映っていてもそれを心で“感じる“という作業も、“感じない”という作業も出来るのが人間だ。感じないということは「見ていない」と同じだ。

 

 

24時間の一日で、たった2時間しか目を開けられる生き物ではなかったとしたら。

 

たった2時間しか耳が聞こえなかったら。

 

たった5言までしか話せなかったら。

 

僕らは何を選ぶだろう。

 

少なくとも嫌いな人間の顔も声も感じたくはないし、大事な5言は大事な人と愛や冗談を交わす為に使いたい。

 

1mmにも満たないプツプツからこれだけのことを考える。

 

 

そしあ

 

端から端まで飛んだ

 

人間に創られたものではない真緑が生き生きと在り、急ぎ行く人が居なくなり、そこに止まった列車もホームも静かに固まっているだけだった。

 

自動車学校は二時間の予定だったが、一時間のみ頑張った後に残った僕の身体は見事な抜け殻となった。暫くの間、黒インクを躍らせたA4の紙達を僕の横に置きながら、窓の向こうにいる世界を見下ろしていた。

 

気付けば、数時間後だった技能予約は20分後に迫っていたが、僕はまるで今列車に轢かれて死ぬことを思いついた少年のようにパッと席を立った。

 

「キャンセルで」

 

いつもの受付のお姉さんにはいつもの俺でしかない、自分からすれば不気味でしかない笑みを光らせ去った。

 

 

そして列車に飛び込んだ。

端まで行った。

 

誰かに完全に身体を操作された様に、それが初めから用意されていた未来のシナリオの様に勝手に動いた。

 

 

 

列車を降りると、空気も景色もガラリと変わり、数百円で遠い国に来たようだった。別の世界の人間に見えた。

 

そしてタクシーに乗り、聞き慣れない「そしあ」という単語を恐る恐る発するが、「はい、そしあですね」と事務的な運転手は聞き慣れた対応だった。

 

辿り着いたそこは、ただのスーパー。なのに吹き抜けにはぽつんとドカンと、平然とした顔つきでグランドピアノが待っていた。「水族館にライオン」くらい本来合わさらないはずの二つのものが何食わぬ顔で存在しているのだから面白い。

 

“今から弾きますよ”アピールも皆無にして、クラシカルなピアノにピチピチタイツのスポーティー少女がピアノの椅子へすっと座る。カオスな光景にカオスがプラスされて何でもアリだ。

 

周りにはキレイなほどに買い物に来ているじいちゃんばあちゃんしか居なかったが、それを感じられるのは塞げない嗅覚からの加齢臭くらいで、視界には指を下ろした白と黒の長方形だけを映した。

 

 

一人30分までにして下さい

 

の注意書のみ気にしつつ気にせず、僕は今にもナイフを持ってしまいそうだった震えた手を、心の奥からの喚き声を、音に変えた。

 

ここ最近震える手は、煙草を持つくらいでしか対処をしていなかったが、対処がつかなくなってしまっていた。手はこれを待っていたのだ。

 

 

僕の中のピアノとは不思議なもので、怒りだけを表現することは出来ない。怒りを音にすれば必ずそこに切なさや哀しさが共存している。仮に怒りだけをキレイに削ぎとって音に出来たとしても、怒りだけで一曲が終わることはないのだ。

 

というよりも、どんな感情からピアノに向かおうと俺の指は悲しい曲を弾き始める。これは僕だけじゃない。誰しもの感情が、そう出来ているのだと僕は思う。怒りの底にあるものは、誰だってこういった弱々しい音に違いない。

 

 

弾き終えたら、四、五人のおじさんと一人のおばさんが声をかけてくれた。

 

みんなじいちゃんばあちゃんだから、どの人がさっき声をかけてくれた人か、どの人がどのおじいちゃんかあまり良く分かっていない。

 

けれど唯一確かな“おばさん”はアメリカでピアノの先生をやっている孫の話をし、

 

「あなたも絶対、ぜっったい世界で活躍出来るわよ、あなたならいける!」

 

と、なぜおばさんの台詞とはいつもこんなに謎な自信と謎な説得力があるのだろう、と思いながらも久々の他人からの心からの称賛を素直に喜んだ。

 

はて、声をかけずとも聴いてくれた人が何十人で、その内声をかけてくれた人が数人で、更に心からの感動をしてくれた人は…と考えていたら、中学時代に俺のイラストを馬鹿みたいに褒めちぎってきたあの先生が思い浮かぶ。

 

俺の絵を見ても、ピアノを見ても、写真を見ても、心から感動してくれる人の数といえば、本当にひと握りなのだ。でもいつだってそのひと握りの人間のイキすぎた賞賛や感動、感謝が僕を動かす。子供を形成する。

 

そう思うと、親や学校の先生は簡単に子供の夢や才能、未来を踏み殺すこともその逆も出来てしまうのである。 

 

せめて僕だけは僕のピアノやイラストのファンでいよう。

 

ひと握り、を世界中で何度も掴んでいけば、なん握りかは出来るくらい僕の周りに人がいるだろう。

 

 

元の街に戻ってきた。

 

人々は急いでいる。

 

固まっているように見えたあの列車や時の止まったホームの静けさが、本来ある時間の姿なのだろう。

青い髪の女の子

 

世界を嫌った、青い髪の女の子。

 

純粋すぎた少女は

 

この星では生きられなかった。

 

 

 

少女は髪をピンクにした。

 

 

自分の中にあるやさしい部分を

 

色だけでも世界にはめようとした。

 

 

けれどピンク色に染った髪は

 

次第に少女とも分離し、空(くう)をさ迷った。

 

身体は怒りと孤独が混ざり、濃い紫色になっていったからだ。

 

 

 

そして少女には何もなくなった。

 

肌色の身体だけが残った。

 

 

それでも疲れ切りながら、切磋琢磨で生き延び大人になった少女は生まれた時と同じ、真っ黒な髪を身に纏った。

 

刈り上げていた耳の横とうなじの感触など、忘れた。

 

 

 

すっかり黒髪を身の物にしたその“女性”は、無造作に頭の上にお団子を作っては、大人を演じたくなれば髪ゴムを解き首を降らした。

 

その度に、髪が揺れた。

 

邪悪なオーラと蠱惑的な匂いが大人しく激しく潜む様な黒い髪。

 

その小さな体に比例せず、大きくなりすぎたオーラで人を惹きつけたかと思えば、触れられる者はいなかった。

 

どうしようもなく惹かれ近寄ってしまうのに、決して誰も触れられなかったのだ。

 

 

 

やがて“黒”は彼女の物になった。

 

他に黒の似合う女はいなかった。

 

 

世界にあった闇の黒さも、

 

人々の心に宿る黒も、

 

そのどこかに落ちた強い黒も、

 

正義の黒も全部飲み込んだ。

 

 

飲み込んだ分だけ、大きくなる。

 

 

身体は小さいまま、オーラだけがナイフとフォークを手に取り、どんなお皿も独り占めするのだった。

 

少女の食欲は減らないだろう。