BOKETTO

ヨーロッパ一人旅の記録とひとりごと。

赤色の涙

 

涙をもっと大きな粒にして、色なんか付けちゃって、もっと目立つ物にしたかった。

 

そうしたら静かに透明の涙を流すぼくに、気付かないで通り過ぎる人はいなかっただろう。

 

どうせなら効果音だなんて付けちゃって、みんなが他人の涙に気付く音か、笑ってしまうような音を付けてくれればよかった。

 

特に女の子の涙はもっと目立つようにしなきゃいけなかった。

 

でも僕らはみな透明を選んでしまった。

 

大好きな人の涙に自分の顔が映るようにしたのだろうか。

 

一人で静かに泣けるように、目立たなくしたのだろうか。

 

ぼくは透明の涙で泣きたい時もあれば、派手な赤色にして誰かに気付いて欲しい時がある。

 

そして涙を脱ぐんでくれたその人の指が愛おしい赤で染まればいい。

 

ティッシュで拭かれてしまうのは好きじゃない。

 

そして透明でもなく目にすら見えない涙を流す誰かがいたら、気付ける人間でいたい。

 

列車

 

便利なものは人をたくさん助け

 

便利になりすぎたものは時に人を食べてしまう

 

 

列車は今日も朝晩と

 

たくさんの人間を運んでいる

 

 

普段だれにもありがとうと言われないのに

 

少し遅れたから、と罵声を浴びる

 

 

 

人を食べる気などなかったのに

 

自分で止まることのできない列車は

 

つまるところ動かされている列車は

 

また人を食べてしまい

 

 

列車を人肉でぐちゃぐちゃにしては

 

また人を待たせ

 

 

すっかり誰かに掃除をしてもらえば

 

さっきまで人の血が体についていたことも忘れ去られ

 

また人をはこぶ

 

 

沢山の人に素晴らしい景色を見せては

 

沢山の人の出勤時間を守っては

 

今日も疲れた人間達を

 

誰も指で撫でてなどくれない人間達を

 

目的地まで優しく送り運ぶ

 

 

もっと乱暴にはこんでくれればよいのに

 

疲れたら休んでくれたらいいのに

 

 

 

また今日もぼくは

 

誰かが沢山死んできた線路を

 

誰かを沢山轢いてきた列車で走り抜く。

 

 

 

列車がとまればみなが怒るけれど

 

いつも列車は一言も文句を言わずに

 

僕たちを差別なく助けてくれる

 

数百円の小銭さえあれば。

 

 

 

そんな、人間が普段、何も思わず使っているあらゆる場所や物、そして人に、人間は常に助けられているのだ。

 

使えなくなった時は、怒るのではなく感謝をしたい。

 

列車も、頑張りすぎて倒れてしまった人間にも。

 

 

 

ありがとう。

 

 

 

大腸癌のタクシー運転手

 

今日のおれの身体はとても公共機関を使う気にはなれない繊細な身体をしていた。人混みは御免だ。朝も夜もタクシーを使った。

 

おれのタクシーの使い方は他の人とは違う。おれがタクシーを使う目的は、急いでいる時は別として、一瞬でもおれの命を預かると同時に初対面のおれを目的地まで運んでくれる“運転手”との会話や出会いにとても価値を持たせたものである。なので乗るタクシーも直感で惹かれた車や、それがなければ運転手の顔を覗いて良さそうな人を選ぶ。似合わないピンクのタクシーにもたまに乗るのは、こういった理由によるものだ。

 

今日の帰りは見事に二台のタクシーに無視をされた。ひょっとして透明人間になったのか心配になっていると、三台目のタクシーの運転手が「ぜんぶ無視されてるじゃん!」と言うようにニコッと笑い、車を停めてくれた。

 

彼はおれを無視した二台のタクシーに激怒していた。おれは全く気にしていないのに、「腹立たない?通報していんだぞああいうのは。」と初めの三分くらいそればかりだった。

 

家にもう少しで着くという頃。

 

「美人には弱いんですよ」と彼は言うから、「じゃあ今弱ってますね」と言った。すると彼は、

 

「ぃやあ本当にさ。もう今70歳なんだ。身体にガンがあってね、最近それが大腸にも転移して…」なんて言い出すから、何を言っているんだコイツは、ともちろんおれは吃驚しながらも「今治ったんじゃない?それか、美人ばっかり乗せてたら直ぐ治るよ。」と言った。おれが言えるユーモアはこれくらいだった。本当は目の前におれの命を運んでいるタクシーのおっちゃんが、一緒にガンまで運んでいると思うとやるせない気持ちで仕方なかった。

 

家に着いた。

 

本当はこれでもかというほど優しい言葉を振りかけてあげたいのに、またもやおれの口から産まれる言葉は「もうすぐ死んじゃうから、またもっかい乗んないとね。」あどけない笑顔でこわいことを言うのだった。

 

少女は反省したのか、付け加えて、「無理しないでよ!」とドアが閉められる前に大きい声を張り上げた。そしてしっかりと顔を見て、もうこちらを見ていない彼に手を振った。タクシーを単なる移動手段と考えれば数千円なんて勿体ないと思うが、命が短いであろう彼にたかが数千円渡すなんて、喜ばしい気持ちとこれじゃ足りないという複雑な気持ちが発生した。諭吉に想いを託して、「これで良い飯でも食べて。」と言いたかった。

 

 

目的地に着くまでの距離で話せる話題など、限られている。それでも何故おれがタクシー運転手と会話をするかは、お互い人間であるからだ。五分で到着する位置だろうと、その人がいなければ歩かなくては行けなかったかもしれないし、その人が事故を起こせばおれの命も危ないし一緒に死ぬかもしれないし、その人も今日仕事をしてきて疲れている一人の人間なのだ。

 

美容師やレストランの接客業と同じで、スナックやガールズバーと違うのは「会話」は決してメインでも無ければ、事務的な会話以外は全くなくても何の問題もないのがタクシー運転手だ。

 

でもおれは、髪を切ってもらったり、食事を提供してもらったり、体を運んでもらったり、何かかしらでお世話になっている人間に対して全く会話もせずに“それはその人の仕事だからそいつはそれをして当たり前”、“してもらって当たり前”と思うことは出来ない。

 

中にはタクシー運転手こそ、“俺の仕事は人を運ぶだけだ”と思っている人も勿論沢山いる。けれど不思議なことにそういう人はあまり巡り合わず、それよりも不思議なことに一度乗ったタクシー運転手とまた乗り合わせることが多い。そして一度しか乗っていないのにお互い覚えている。

 

友人に話すと驚かれるが、仲のいい連絡先の知っているタクシー運転手だっている。運転手こそ、お客様を待たせるのは良くないからお客様と連絡先を交換することはあまり無いのだけれど、おれは人間味のないロボットにおれの体を運んでもらう気はない。

 

運転手にだって、色んな人がいる。「僕も昔サラリーマンだったので、出勤前のサラリーマン達が気持ちよく出勤できるように会話をしたり、逆に人を見て静かにしたりします」と言ったある日の運転手さんや、「女優になるのが夢なんだ」と言った自分に「それならこういう人と繋がらなくちゃダメだよ。」とあるギタリストのチラシをくれる人もいた。

 

人が好きで運転手をしている人、運転が好きで運転手をしている人、どちらも好きではない人、様々だ。どんな職業だろうと同じことが言えるだろう。マクドナルドの店員に「マック大好きなんですね」とは言わないのに、風俗嬢には「セックスお好きなんですね」と言う乏しい発想はサヨウナラだ。

 

“もてなす人”が客に対してサービスをするのは当たり前だけれど、おれは変態なことに“もてなされる側”であっても相手に気持ちよくなってほしいといつも思っている。

 

今日も「美人さん」と言って運転手のおっちゃんは喜んでいたけれど、美人というだけで何もせずとも周りの人を幸せな気持ちに出来るなんて、最強の人間だと思う。でも意図も簡単に人を、特に接客業をしている人を幸せにするのは、褒めることだ。みな辛いことがあっても笑顔でがんばっている。

 

 

相手がロボットの運転手ならぼくはずっと携帯と睨めっこしているけれど、今日の彼のように運転手さんだってみんな何かしらのストーリーのある人生や一日を過ごしている。

 

もしも疲れ切っている運転手さんの一日の最後のお客さんがぼくで、ぼくが会話をすることによって少しでも癒しを与えられたり、少しでも「今日頑張って良かった」なんて思ってくれたら、なんて思いながらまたタクシーに乗る。

 

 

こんなことを何処ででもしているから、街をまっすぐ歩くだけでスマホ修理屋さん、モスバーガー、マッサージ屋さん、お花屋さん、下着屋さん、服屋さん、革屋さん。いっぱいぼくを愛してくれる人が散らばっている。

 

みんな、人間なのだ。

 

 

 

もしも今日、地震がくるのなら。

 

今。

 

数秒後に地下の岩盤が破壊されたら。

 

今日眠りについたあと、そうなったら。

 

 

 

この文章が最後の言葉になる。

 

さっきあの人に見せたあの笑顔が最後の笑顔になる。

 

さっきあの人に見せた怒りが最後の怒りになる。

 

その人にとっておれの最後の表情は怒りに満ちた顔であり、

 

その人の最後におれが突き刺したのは真っ赤な槍である。

 

その人に与えるべきだった両手で抱え込んでいたはずの真っ赤なハートすら吹き飛ばして、それすら忘れて。

 

 

今死んでしまえば、

 

さっき道を尋ねてきた人が最後の話し相手になり、さっき挨拶を交わした嫌いな上司が最後の話し相手になり、さっき食べた特別旨くもないコンビニ弁当が最後の晩餐になり、さっき無愛想だったそこの店員が最後にぼくの声を受け取った人だ。

 

 

 

もしもぼくが、

 

今日大好きな家で眠るのなら、大好きな場所で死んでゆける。

 

今日大好きな人と眠るのなら、大好きな人と手を繋いで死んでゆける。

 

今日嫌いな人とセックスをして寝てしまったら、嫌いな人と裸で死んでゆく。

 

今日明日には覚えてない人とセックスをしてしまったら、顔も知らぬ人間と裸で死んでゆく。

 

 

 

 

 

さて、僕らは何処に居るべきだろう。

 

誰と居るべきだろう。

 

誰に会うべきだろう。

 

誰に伝えるべきだろう。

 

誰に謝るべきだろう。

 

今、ぼくは何処に誰といるのだろう。

 

 

大事なのは最後の瞬間だけではない。大事なのは最後だなんて誰かが言うけれど、死んでしまえば、母の腹内に命を灯した日からこの世を去るまでの長い年月に、大した時系列は関係しないようにぼくは思う。

 

ケンカが最後となったカップルがケンカをしながらも愛し合っていることはお互い承知していたり、笑って終えた夫婦が内心はお互いを憎み合っていたり。

 

 

 

ぼくはじいちゃんが死んでから、「人はいつ死ぬか分からないから」と人とケンカをすることや、怒りを放って一瞬でも家族や友達と手が離れるのが恐かった時期がある。

 

その時の自分の体は異常なまでに「これが最後にかるかもしれないんだよ?」と訴えていて、なんだかめんどくさい奴だった。

 

自分ひとりでそうしとけりゃいいのに、他人にまで押し付けてしまうものだ。するとそこに在るはずの沢山転がった愛情に気付かず、そりゃあ今日死ぬだなんて考えちゃいない普通の人間からしたら重たい訳である。

 

 

 

 

では今の自分は。

 

 

「今日、しぬかも」

という気持ちは変わらず居座っている。

 

 

けれど違うのは、他人にまでそれを求めなくなったことと、大事なのは最後のシーンではなく本当の意味でその人と気持ちが通っていたか、と考えるようになったことである。

 

ぼくは他人がどんな生き方をしてようとマネをしてようと、少々くさい台詞も平然と口から吐き出せる人間になりたい。

 

今まで沢山の人間に手紙を書いてきたけれど、手紙ほど後で見返して重い、恥ずかしい、きもい、そんなものはない。

 

でも良いのだ。

 

考えすぎでも、感じ取りすぎでも、重たすぎでも、くさすぎでも長すぎでも、僕はこれからも人に伝えることを怠りたくない。

 

なぜなら一つ下の後輩が、雲ひとつない快晴の空のようにいつも純粋に周りの人間を愛していた。その姿があまりにも眩しく、子供のように美しかったからだ。

 

彼女は小さい体でいつも120%の愛情表現をしていた。普通の人間じゃ手を伸ばさないであろう人間、たとえば立場が上の人にまで遠慮なく土足で踏み込み愛を振りまいていた。

 

 

 

“愛される人”

 

とは、他の誰よりもとことん周りの人を愛する人間だと思う。限りなく純粋な心で理由もなく無邪気に。そう思いたい。

 

 

きっとそんな風になれば、誰が見ても天使のようだろう。

 

 

けれどそれでも、それを“悪魔”と呼ぶ人間もいるのだから、自分を天使だと思い込むのが手っ取り早いんじゃねえか、と思った深夜0時である。

 

 

明日は何処へ行こう。