BOKETTO

ヨーロッパ一人旅の記録とひとりごと。

一人映画の果て

 

今日でこのすっかり住み慣れた家と、そこの唯一の同居人であった年季の入ったピアノとまたねをする。人間は本当に慣れてしまう生き物で、この家に到着した日は子供のようにはしゃぎ喜んだのを鮮明に覚えているが、それから今日までは至って普通の毎日だった。正直言えば、初めて到着した日の映像も今日まで思い出せなかった。念願であった「四六時中ピアノが弾ける」「何時でもスピーカーで好きな音楽聴き放題」「裸でリビング」…等、あげれば欲張りなほどにお望み通りのお部屋だったことがよく分かるのに。

 

だけれど今、あと数時間後にこの家を、この街を旅立つぼくは壮大であり美しいジブリの曲に浸りながら「美しかった日々だなぁ」と勝手に感じている。では音楽がなければお願い事が叶ったことに有難味も抱けない冷たい人間かというと、時に冷たい人間だ。なんでもない街の朝に、出勤を急いでる訳でもないなんでもない朝に、フランスのアコーディオンの音楽を耳に流し入れるだけで一瞬で街の彩度がぐんと上がったり、なんでもない家族の団欒や、なんでもない今までの人生も、ひょっと美しい音楽を添えただけでどうしてこんなにも全てが美しく観えてしまうのだろうと思う。

 

きっと映画とおんなじだ。

 

人を殺し合って血を流すシーンでも、必死な顔の表情にカメラを寄せて更にそれをスローモーションにしてそれっぽい音楽を流せば、それは感動的なシーンに見える。もちろん、それを激しいアクションに見せることもできる。それが出来るのはプロデューサーやカメラマン、舞台裏と言われる人たちだ。演じる役者が同じ演技をしても、それのどこをカメラに撮して、どこを切り取って、どこを強調して、そして最後に音を添えてあげられのは"その人たち”に懸かっている。

 

では、"その人たち”は誰かというと、自分だ。

 

演じる役者には沢山の人間がいて、もちろん自分もいる。けれどそいつ(自分)を「町人B」にすることができるのも「主人公」にすることができるのも、いつもそいつを離れた視点で見ているもう一人の自分、つまり監督やプロデューサー、カメラマンといった席に座っている自分だ。

 

"監督のぼく”は自分の好きなようにシナリオを作っていいし、途中で飽きたら全然違う結末に向かわせてもよし。

 

監督が自分であるのだから、

 

"兼カメラマンのぼく”はどんなシーンでも好きなように撮ればいい。「こう見せたい」と思うように撮ればいい。

 

また、大事なのは"音響スタッフであるぼく”。

 

カメラマンがいくら美しいシーンに作り上げても、音一つでそれを最悪なシーンにも、もっと素晴らしいシーンにも変えられる重要なお仕事だ。

 

 

けれども現場にいる全員がそのストーリーを撮るには欠かせない、一人一人が大事な役割を持っている。だから一人一人が「その映画」に没頭することだ。たとえそれに莫大な時間をかけたのにも関わらず、出来上がったそれをみんなで鑑賞したらたったの2時間しかなくたって。

 

 

でも没頭する上で忘れちゃいけないのは、数ある仕事の中で最も没頭するべき"ぼく”は「役者であるぼく」なのだと思う。だからといって、"監督であるぼく”を忘れたり、日常のどこを切り取ってどんな音をつけて、最後に自分の人生をどうスクリーンに写すかも最初から最後まで自分の仕事だ、ということも忘れたくない。

 

 

現実は、すっかり監督の声も指示も何も聞こえなくなってしまった「役者」に入り込んでしまっている人間が多いと監督のぼくは言う。そんな状況でも、「ディレクター」いわゆる監督である自分は常に役者の人間に指示をしようとしてくれている。それに加え、常に舞台裏の人間も含めて客観視して現場をまとめている。そんな監督に応えるために、大前提として、役者は、「自分が何の役であるのか」をしっかりと把握する必要がある。そんなの当たり前なことだ。今この瞬間も"人間”という体で役を演じている僕たちはただ、それを思い出せばいい。

 

 

 

 

 

昔々、映画製作を"監督”が喋り出した頃。

 

 

「全体のストーリーはこうで、最後はこう終わる。

君にはその中で最も目立つカッコいい役柄を与えよう。

 

泣くシーンも、笑い転げるシーンも、怒るシーンも、

キスシーンも濡れ場も、恋人と別れるシーンも、

"ぜんぶ”が大事なシーンだ。全力で演じてくれ。」

 

 

"役者のぼく”は"監督のぼく”に

きっとこう言われたはずだ。

 

 

 

そして続けて監督はいった。

 

「好きに演じて良い。台本もいらない。

けどおれからの指示は聞いてくれよ。」

 

と笑いながら。

 

 

この"おれからの指示”というのが、

近頃「ワクワクすることをしよう!」とか

「直感に従おう」と呼ばれているものに値する。 

 

 

監督はいつも「ワクワク」 とか「ピンとくる」

という形で僕たち役者にサインをしている。

 

スクリーンの中には立てないから、

「人間」という登場人物を作って

その役柄にそうして伝えている。

 

 

問題は僕らが監督の声を聞いていないではなく、

聞いているのに、殺してしまっているのだ。

 

長い間、役に夢中になりすぎて

本当に声が聞けなくなっている役者も中にはいる。

 

けれど大丈夫。

 

監督はいつもその場にいるし、指示をやめない。

総責任者である"プロデューサーのぼく”

もその場を離れたりはしない。

 

 

きっと"プロデューサーのぼく”は

役者のぼくが現場を出て行ったり、

監督の声を無視して演じ続けることに

悲しさを抱いてるだろう。

 

プロデューサーは、きっとはやく

映画を宣伝して、公開したいに違いない。

 

 

 

 

きっとこの世界で、自分が自分で創り上げた夢の世界を生きていると気付いている人はまだまだ本当に少ない。自分が監督であり、いつだってストーリーを描き変えられることを知っている人も。一生懸命に与えられた役柄を演じるが為に、入り込んでしまって本当にその気持ちになってしまうのは素晴らしい俳優だと思う。けれど監督の声を聞いてほしい。一番、物語を知っているのも物語の行方を知っているのも、"彼”なのだから。なぜなら物語を創ったのが、彼なのだから。

 

そして一生懸命に役に入り込むには、監督の描いた世界はもちろん、与えられた「役柄」についてもっともっと知らなくてはいけない。これを怠る俳優がこの星にはありふれている。役柄の生まれた背景、時代を知らずに演じてしまったり、その役柄が「どんな家が好き」かも「どんな食べ物が好き」かも知らずに演じている人も中にはいる。

 

自分が演じる役だ。

 

もっと監督の意図を、声を、聴いて、聴き続けて、

自分を知って、知り続けて、知り尽くして、

 

その上でどのシーンを選んでどう上映するかを

好きなように作ればいいのだ。

 

 

 

 

そして、役柄を演じ切ってスクリーンの前に座るとき。

 

横にポップコーンがあるのか、

横にだれが座っているのか分からない。

 

もし横に誰かが座って同じ映画を観ているのなら、

それはきっと一緒に演じてきた他の役者達だろう。

 

 

一人で始めた映画製作なのに、

最期にはそれを一人でも一緒に観られる人がいたら

そんな幸せなことはないと思う。

 

 

そして一人でスクリーンを眺める者と、

沢山の人と一緒に眺める者のちがいは、

 

やはり常にどんなシーンでも、

カメラが回っていない時でも、

一生懸命でいて、

他の役者に愛や笑顔を絶やさない役者だったかどうかだろう。

 

 

 

どうせなら、ぼくは後者を選びたい。

お金の目覚め

 

ぼくはこれまで大事なことを忘れていた。

 

今ぼくらが生きているのは三次元の物質世界だということ。

 

 

19歳からのヨーロッパ一人旅で、

「思い通りになる」「どこへ行っても助けてくれる人が現れる」

という引き寄せ慣れをしてしまった僕は

 

「おかねなんていらない」

 

と本気で目覚めた"気に”なっていた。

 

 

 

これも大事な気付きであり、

もちろん今も、

 

"お金は人間が勝手に創造したもの”であり、

勝手に創造しておきながら自らそのお金を使って首を絞めてたり、苦しんだフリをしたり(それを味わったり)なんかして、なんとも可愛らしいゲームだとは思っている。

 

 

それにしても、本当におもしろいほど、

あまりにも人間が「お金」に踊らされている。

 

しっかりと脳みそをホールドオンされて手足も感情も操作されている。

 

 

まるでこの世は"お金”が住む星であって、

"お金”の為に人間がせっせと働いているようだ。

 

 

 

 

––では、お金はこの世に必要ないのか?

 

 

いずれは、「イエス」だと思う。

 

 

いずれ、というのは、

 

そもそも"必要であったから”生まれた。

そもそも人間がもっと便利に、生きやすくなるために生まれた。

 

なのに

 

いつしか持っているお金の量を見せびらかしたり、隠したり、

お金を稼ぐ=幸せになっていたり、お金がある=安心になっていたり、

一番失礼なのは「お金の話はいやらしい」というものである。

 

まるでセックスが汚らわしく扱われるのに似ている。

 

 

だから僕らにとって「お金の必要ない日」が"今”やってきたら、

多くの人が生きる目的も幸福も失くして死んでしまう。

 

 

では一体いつかというと、

 

僕らが、「お金なくても死なないし、別にはっぴーだったわ」とか

逆に、「お金持ちになってみたけど、なにこの空虚感…?」とか

 

人それぞれ貧乏な生活、リッチな生活、

パートナーとのお金トラブル、親とのお金トラブル。。

 

散々、お金で悩んできた人生から、

 

「お金ってもしや…ただの紙じゃない?????」

「紙に操作されてんの私???」

 

「あれれれれ」

 

 

もう分かった、分かった!と手を挙げ、

お金ゲームの世界から完全に目を覚ますことである。

 

 

それはつまり、そもそもお金がなんだったのか、思い出す時である。

 

 

例えば、まだ人々が物々交換をしていた頃、

 

海の近くにいた人は魚がたくさん獲れた。

魚は持っているけれど、畑がないので果物がない。

果物をもらうには遠い果樹園まで、

交換する魚を持って行かなければいけない。

 

 

ようやく重たい魚を背負って果樹園の人を尋ねたら、

 

「ごめんなさい。わたし魚きらいなの…」

その瞬間、物々交換、今でいう"商売”がそこで終わるのである。

 

 

そこで「物々交換、効率わるくね」と気付き、

だったらその価値の"代わり”に「石を使おう!(仲介させよう)」

 

とみんなが納得して、みんなが"石”と"みんな”を信頼すれば、

やがて街のみんなはいつも石でやり取りをするようになった。

 

 

こうして現代においては「紙幣」や「コイン」といった

お金が出来た当初は、とても便利なもので人を助けたであったろうと思う。

 

 

もし僕がこの時代の人であって今の僕たちを見たら、

「ぼくらは便利にするためにお金を作ったんだよぉ〜〜!!」

と、悲しくなるだろう。

 

 

 

というかそもそも、

 

このお金ごっこというバーチャル世界を創ったのは

自分たちなのであるから、それに自分たちが操られているというのは、

ほんとにおかしな話である(笑)

 

でもこのばかみたいなコントも自業自得ではない大事なポイントは、

これも全て「シナリオ込み」ということだろう。

 

お金ごっこでお金に振り回されてわんわん泣き喚いて、

そうじゃなく最初からお金で人を幸せを与えてきた人も、

 

ぜんぶそれを"感じる”ためだったのだ。

 

 

 

 

なぜか?

 

"本当の自由の中で、自由であることの感覚が分からないあなたにとって、自由さの感覚を取り戻すには「一度不自由さを体験しつくす」以外にないからである”

 

"「思い通りにならない」という夢の中だからこそ、思いを叶えるという夢にチャレンジし、思いが叶うということが喜びとなった” 

 

 

こんな言葉を今朝、読んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 ぼくが昔、「お金なんていらない!」 と言っていたのは、

今のようにハッキリ言葉に表せなくとも、

体で本質をわかっていたのだと思う。

 

 

−−–五次元とは?

魂レベルが上がると何故お金持ちになるのか? 自由意志を正しく使うと豊かになる理由 | | Spiritual NORI

 

5次元のお金の話 | Momoyo Smoczyk - Spiritual Guide

(↑この世には2タイプの成功者がいる、という話)

 

 

ただ、今生きている世界は三次元の物質世界だったということを

旅の途中どこかの海に忘れてきてしまったのだ。

 

 

 

 

 

 そしてもう1つ。

「お金のいらない世界」を“たった2箇所”、知っていたからだ。

 

 

一つは日本のとある島、

一つはクロアチアの小さな港町。

 

 

彼らは見ず知らずのぼくに、

まるで昔から家族だったかのように接してくる。

 

食べ物にも困らないし、寝るところも困らない。

 

ただそこにいるだけで、家族になっている。

 

「お礼に〜しなきゃ」という概念もこちらに生ませないほど、

ごくごく自然にあったかくそれを成し遂げる。

 

やはり人と人のコミュニケーションの糸が図太くネチっと繋がっている田舎や小さい集落は、人が助け合って「共存」していて、お金なんてなくてもみんなで何とかしてる。

 

そんな街が大好きだからこそ、

本当に「お金がいらない」と言い張っていたのだろう。 

 

 

そんな2年前の自分がなんだかとても愛おしい。

 

 

 

けれど今、他の街や日本にも行ったり帰ったりする僕にはお金は必要だ。

 

今なら言う。

「ぼくはお金がほしいです」と。

 

 

 

 

 

ところで現在は、

 

仮想通貨という次は"目に見えない”ものに進化していたり、

貨幣ではなくカードや体に埋め込むマイクロチップで決済していたり、

"信頼を数値化する”というクラウドファンディングが有名になってきたり、

 

「お金の形」の変化は今まさに大きく変化してきている。

 

 

だからこそ今、人々のお金の意識が大きく変わる時であり、

気付きやすい時であると思う。(ちなみに結婚制度に関してもw)

 

 

ニセモノのお金を作れないように、

今まで人は貴重な金(きん)をお金にしたり、

お金が石だった時代から、模様の施された石だけを使っていた。

 

そして現代の日本の紙幣の重厚感。

国によっては本当に「人生ゲーム」のおもちゃのような紙幣なのに対して、

日本のお金はどこか高級感があり美しい。

 

だからこそ、人はいつしか「お金」という紙幣そのものに興味を持ち、

紙幣そのものに価値を持たせすぎてしまってきたのではないかと思う。

 

福沢諭吉がブサイクだったくらいじゃ人は一万円札を嫌いにならないが、

一万円札がもっと不恰好で持つのも恥ずかしいものだったら。

もしくは多少臭かったりなんてしたら。

 

ここまで人は100万円の札束に舌を出してヨダレを垂らしはしなかっただろう。

 

 

 

今はまだ、多くがお金に飼われたペットみたいだ。

 

いや、そういう人はお金に愛されなどしないのだから、

ただリードに繋がれている奴隷のようなペットかもしれない。

 

奴隷だけれども、いま急にリードを外されても、

「お金がいないとダメになっちゃう」のが定着した思考なので、

野生になったところで何をしていいか分からない。

 

むしろ飼い主(お金)さんがいなくなったことでの

空虚感とやらに押しつぶされてどうしようもなくなってしまう。

 

 

目の前にいるその飼い主は、

自分が創造した仮想人間だとも知らずに。

 

 

 

 

いやそもそも、自分の存在すら、存在する世界すら、

夢か現実か分かっていない、というより興味のない人間が、

お金の生まれた経緯すら知らず、まさかお金がこんなに人間と繋がっているとは

 

まったく思ってもいない=興味がない、

=存在していない、世界なんでしょうね(笑)

 

 

 

 

 

はやく満月になりますように。

人類の為の人工第二言語(国際補助語)について

 

ここ最近、ヨーロッパに来てから「言語」について考えることが本当に多かった。

 

2年前、初めてヨーロッパに来た自分はなぜだか共通言語の全くないトルコ人と2ヶ月間も一緒に住むことができた。しかもそこにストレスはなく、あるのは簡単な英単語「グッド」「ノーグッド」「ユーハングリー?」「ユースリープ?」本当にこれくらいだった。けれどもその時の自分は「自分の表現ツールの中で"言葉”の優先順位は高くない。だからそれを求められることのない今の生活が心地いい。」と書いてあり、"世界全人類に対する共通言語がないからこそ人はそれが1番大事ではないことを知られるのだ”というのが自論だった。

 

 

 

boketto.hateblo.jp

 

 

  

 

そして今回。

 

2年ぶりにそのトルコ人と会って、「また言葉を求められない優雅な時間を過ごせるのかぁ〜」と当然のように思っていた矢先、ケンカをした。そもそもその前から2年前の様な"共通言語がない”という部分へのリラックスがなく、気づけば「通じろや。」「これくらいの英語は理解しろよ。」になってしまっている自分が増えていた。

 

もしケンカの場面だけでも共通言語たるものが二人に存在していたら、状況は違っていたかもしれない。本当は相手の行動に対して怒りたいのだけれど、果たして彼がその行動を取った意味を、単なる"言語によるすれ違い”によって自分が履き違えているかもしれない。もっと単純な理由で彼はそれを行ったかもしれない。そして自分が「何に」「どうして」怒っているかも彼には全く伝わらない。翻訳機を使っても変な文章になる。これこそ、言語が通じない、意思疎通が出来ない、最大の「もどかしさ」を味わった瞬間だった。そして恐ろしいのは、そんな時に友達に電話で愚痴を言っても、彼は一言も日本語を理解することは出来ない。「まじありえないんだけど。」と言っている横で彼はそれを聞いているのだ。聞き取ることは出来ずに。

 

彼との生活はそれで終わった。一度、二泊の家出(一人になりたくてホテルに泊まったw)を経て家に帰った時には、また翻訳機を起動して、それでもなおコミュニケーションを止めない彼がいた。けれども訳のわからない翻訳機がリメイクする文章にもお互い疲れて、結局は二人とも簡単な文章、「〜してくれてありがとう」や「本当にごめん」、「だけど好きだよ」といったシンプルな表現しかしないのだった。自分はもう翻訳機を使ったコミュニケーションすら面倒くさくなってしまっているのに、出会った頃と同じ様にコミュニケーションを止めない彼は、誠に彼らしかった。

 

 

 

 

そして一人でハンガリーに来た。

ハンガリーは約3年ぶりだ。

 

 

そしてドミトリーのホテルに泊まっていたら、仲良くなったのはウクライナ人二人と、イタリア人の男の人だった。経験上、女の人は「言語が通じない」と分かったらその場ですぐにコミュニケーションをすぱっとあきらめる人が多い。別のホテルで出会った流暢な英語を話す韓国の女の子は、いかにも「正しい文法で喋ってます!」といった"言葉に頼りきった”喋り方で、その奥にある感情や表情が何もなかった。いくら流暢に喋れていても全く理想のあり方ではなかった。

 

一方、ウクライナ人、イタリア人、日本人の四人のグループは本当に最高だった。ただこの四人がこの間まで一緒に住んでいたトルコ人と違ったのは、「みんな夫々の母国語でアタックしてくる」ということだった。誰もお互いの母国語は理解できないのに、あたかもこちらが理解しているような素ぶりで話してくるのだ。ウクライナ人は翻訳機が嫌いで、どう頑張ってでも必死に生きた言葉で伝えようとしてくる。こちらが理解するまで殆どあきらめない。イタリア人は殆ど分かっていないくせに、「イエス、イエス」と分かったふりをする。女性でこういう人は見かけない。

 

四人は気付けば皆仲良くなり、夕食は一つのテーブルを囲うようになった。いつもウクライナ人がウクライナ料理を振る舞ってくれたり、イタリア人はいつもパスタを作ってくれた(本当にパスタパスタうるさかった)。けれどもこの四人でさえ、「言語の違い」についていつしか一人一人、それぞれにわだかまりが生まれていた。ここに書くのもくだらなすぎるほど、本当にくだらないことですれ違いがあって、本当にくだらないのにどうしようもなかった。

 

そんな中、唯一ホテルのリセプションのおじいちゃんだけは英語が話せた。お陰でウクライナ人に対する怒りも(ケンカしたw)、この四人のカオスな状況も、トルコ人と住んで「共通言語があることが一番大事なことではないと思っている」ことも、自分のストレスや思考は上手く放つことができた。おじちゃんありがとう。

 

そしてイタリア人との別れは彼が飛行機ギリギリの非常に切羽詰まった状態でホテルを後にしたので、「あんなに仲良くしていたのに(最初パーシーのこと好きだったのにw)なに??」といった具合で、空港までの交通機関飛行機の日にちを理解し合うのも困難、帰り際まで言語によるすれ違いは大きかった。

 

 

 

 

こんな風にドイツに入国してから今日まで、

「言語の違い」が原因で起こる問題が本当に多かった。

 

 

 

一年前は居心地の良かったはずの「共通言語がない」という状況が、今こんなにも居心地が悪く、簡単な意思疎通さえも出来ない"めんどくさいもの”になってしまっているとは一年前の自分は思っていなかった。いや、あの頃も時にそう思うことがあったけれどここまで深刻じゃなかったのには、大きな背景が隠れている。

 

あの時よりも「本気で"英語を勉強したい”」という思いが強く、強すぎるのだ。

 

それもあって、たとえば全ての文章に対して「I am〜」を付けたり変な英語を使われると自分にも感染る!というストレスと、「〜したい」「〜したくない」くらいの英語は通じろよ!というあまりに冷淡な気持ちが芽生えてしまっていたのは間違いない。だからもしも自分が既に流暢な英語を喋れていたら、もしかするとここまで気にならずに自分も彼らには通じない"英語”でどんどんアタックしているかもしれない。それはないな。

 

 

 

ここまでは言語の「異」について。

 

 

そして先日。

逆の立場を経験することとなった。

 

自分が英語を全く話さない彼らに対して「それくらい、分かれよ」と思っていたように、自分がネイティブからそう思われる出来事があった。実際に言われたわけでもすれ違ったわけでもなく、ネイティブすぎてよく分からなかったからその場から離れただけなのだけれども「こういうことだよなぁ」と思った瞬間だった。と同時に、英語の"音”が大好物な自分にとってはもっと「綺麗な発音で喋りたい」という感情が、それを追い求める心が、人よりきっと大きいのだと感じた。

 

勿論、今まで様々な「言語の通じない」シーンを経験してきたけれど、そこに共通言語がなくとも、こちらの英語力が劣っていても、トルコ人の彼のように"コミュニケーションを止めない”ことは本当に心がけているし、今の自分の拙い英語を恥じる必要もない。恐る必要もない。そして、"コミュニケーションを止めない”ことはたとえ共通言語のある私たち日本人同士であれ大事なことだと思う。

 

英語が世界で最も必要な言語だ!とは言わない。下の画像に書いてあるが、ただたまたま日本でも主要国でも多く学ばされている、使われている「英語」がたまたま自分は好きだったというだけである。

 

 

 

 

 

 

そんな、言語に対して深く身体で体感している時に、

 

matome.naver.jp

 

仲の良い友達が"エスペラント語”(人工言語)についてあげていたからジャンプして飛びついたのであった。

 

 

 

ちなみに最も現時点において、自分の中で面白いと思う「人間の言語がバラバラになった説」は、聖書での"バベルの塔”だ。下のサイトが個人的に分かりやすかったので、載せておく。

 

blogs.yahoo.co.jp

 

神はそのような人間を嫌い言語を混乱させることによって人々の考えや価値観に多様性をもたらし、人をして個の尊厳と議論の大切さに目覚めさせた。

疑うことも考えることも議論することもなしに権力者の命令に盲従してバベルの塔の建設にいそしむ人々。神様はこういう傾向を嫌った。というのである。

 

 

引用1つ目はまさに2年前の自分が言っていた文句である。

 

でも確かに、今回のヨーロッパでは上記サイトでも書かれている通り「世界で一つの言語しかない方が、人々は意思疎通が出来て争いも減るのではないか?」とも思うところも沢山あり、「いやいや、夫婦でも友達でも、言語通じてるのに出来てへんやん」と思う部分もある。なぜ言語がバラバラ、というのも二つや三つではなくしかもこんなに複雑な文字というものまで付属して存在するのだろう?

 

 

まだまだ学び足りない。

 

もっともっと知らないと。

 

 

 

 

 

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(Lazaro Ludoviko Zamenhof )

 

世界には、自分と同じように考える学者や研究者、探求者がこれまで自分が生まれる前から存在していたのだと思うと、とても安心する。これを教えてくれた友達と知りたい興味、対象が同じように世の中にはもっと自分の学びたいものや価値観、考えと一致する人が多くいるはずだ。

 

「地球はまるい」と言ったり地動説を訴えた人々はいつも少数で時には一人で、孤独だったろうか?自分の考えはいつだって一人でに示せるが、時に同じ物を見つめる誰かが欲しくなることもある。

 

それもあって、今は大学に行きたいのだ。こんな学びたがりの自分には、もっと仲間と論議を交わす時間や、それができる同じ物を探求する仲間を持たせてあげたい。 

 

 

 

 

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めんどくさいからInstagramのやつ、あげます。

 

 

 

 

朝4時。

 

完全に"時間概念”のない生活してる(笑)

 

 

 

 

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(補足)2018.01.18


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かなっていた

 

いま大好きなヨーロッパで、かなり好みの色調の壁、床、小物ひとつ切り取っても本当にお洒落で自分好みの部屋にいる。この細部へのこだわりと、センスの良さがたまらない。日本の賃貸では絶対にない。家のどこを切り取っても、「ふぅ」と美しさと落ち着きを感じられる理想の場所だ。

 

そして抜かしてはいけないのが、さらにここは防音室で、クラシカルなピアノが置かれているということ。

 

 

それなのに、だ。

 

毎朝、目を覚ます度に「くっそー幸せやなぁ!!」とは思わない。

 

強いていえば、「しあわせやなぁ」とほんのちょっと感じるだけで、

心の底から湧き上がるようなものがない。

 

 

洗面所の鏡を見て、

 

あれ???????となった。

 

 

 

ついほんの少し前まで、自分のストレスは「ピアノが四六時中弾けないこと」であり、その時の自分の夢は「ピアノが四六時中弾けること」であった。1番欲しいものは"防音室”だった。防音室なんてそう多くあるものではないし、作ろうとしたら莫大なお金がいるし、ましてや海外なんて。。

 

 

そうあきらめていたはず。

 

 

 

 

そしてこっち(海外)へ来たら、

防音室のことなどすっかりわすれていた。

 

 

 

 

 

そしたら願いと時差があり、

 

気づいたら願いが叶っていた。

 

 

 

 

OMG。

 

 

 

 

 

 

自分がワクワクすることをしていたら、

 

次々と願いが叶ってしまって、

 

"叶い慣れ”してしまってくる。

 

 

 

叶い慣れすることはわるくないし、どんどん使いこなせばいい。

 

けれど願った自分と叶った現状はしっかりと見ていたい。

 

そして感謝をわすれずに。

 

 

 

 

 

 

まったく

 

こまった子です。

 

 

 

 

きっと今の家も2、3週間で飽きるのが目に見えるw

 

 

 

でもありがとう。

 

 

「たかが一泊」「たかが二週間」、

それでも自分が恋のできる時間ができるだけ多いホテル選びを。 行動を。 

おこる

 

 

ほんの少し前までは相手に怒りを見せたりぶつけたりするのは"子どもらしい”と思っていて抑え込んでいたけれど、どうせ本当はある怒りを抑えてある日爆発するくらいなら最初から素直に相手に伝えるのが心地いい。ぶつけるのは良くないけど、時にぶつかったって自分に◯をつけてあげて良いと思う。こういう、抑え込んでしまうタイプの子には。反対に、普段から怒りをよく外に産みまくっている人間は、もう少し産む時期や産み方を考えてみたらいい。

 

 

「けんかするほど仲がいい」という言葉がきらいだった。そんなカップルは、あほらしいと思っていた。「大人なんだから、けんかしなくても話し合えるだろ」と18歳の小娘が言っていた。もっと人らしくときには感情に任せてもいいのに、すっかり人間になってしまった少女は成人する前に体内から"怒り”を消してしまった。感情の受け入れ方や出し方を工夫するのではなく、感情そのものを消していた。

 

勿論、感情を消せるはずなどないのだから消したと思っている感情がある日満杯になって爆発する、というサイクルをもう何度も経験してきた。

 

 

そして今、21歳になった今は"怒り”を感じてあげることも、産み出すこともできるようになった。初産だ。厳密には子どもの頃は自分の中に生まれた"怒り”に対して罪悪感も疑問も抱くことなく、ただただ「おれはこれに怒っているんだ!」と自信を持って怒りをいつどこでも、産んでいたのだけれど。ある日、"やさしい人間”は自分が怒りという卵を腹の中に身ごもったのにも気づかず、陣痛が来てはじめてそれを知ることになる。当然、お産の準備もできちゃいない。

 

 

 

人間は、愛し合った人と死ぬまで一生笑い合うだけがハッピーだろうか?

 

それともその中にほんのちょっと涙を流すシーンがあった方が感動するだろうか?

 

それとも「おまえなんかいなくなれ」と言ってしまうくらいのシーンがあっても良いのか?

 

 

言葉にすると3番目は酷く聞こえるけれど、実際にそういうシーンを持って結局は抱き合っている男女も数多くいるだろう。

 

 

けんかは一切せず、何かあったらきちんと話し合い。

 

それは素晴らしいことだ。

 

思いやりがないと出来ない。もしくは相手に執着していない。

 

 

でも今の自分にはちょっぴり不器用でたまに"まちがってしまう”人間関係が、いわば家族関係がうっすらかわいらしく感じる。

 

 

 

だから女の人が泣くと男性がよく言う、

「笑ってる方がかわいいよ」とか

「泣いてる顔は好きじゃない」とか

 

 

 

あんまり、わかんない。

 

 

「泣いてる顔も、好きになれよ」

 

とおもう。

 

 

 

RADWIMPS野田洋次郎だったら、

 

"その涙をコップ一杯に溜めて飲み干してみたい”

 

と言うだろう。

 

 

 

哲学的に、涙は美しいものだとおもう。

 

怒りも今なら、死ぬ時には美しく観える気がする。

 

長い人生でずーっと怒っていろと言っているのではない。

 

ずーっと泣いていろと言っているのではない。

 

 

そりゃあ誰だって、笑っているのが一番いい。

 

 

でも長い人生のたった一瞬、せっかく持って生まれた涙や怒りを一瞬だけ、愛してあげて撫でてあげてほしい。

 

 

そうでなかったら僕たちが涙や、涙を流せる眼や感情を持って生まれた意味がわからない。

 

 

理性を使いすぎて、疲れるのなら、

理性を使いすぎて、結局感情が爆発するのなら。

 

最初から感情をしっかり抱きしめたい。

 

 

 

せっかく持って生まれたのなら、

それらをしっかりあいしたい。じぶんのも、あいてのも。