BOKETTO

ヨーロッパ一人旅の記録とひとりごと。

こども

 

バスに乗った。

 

本を開いた。

 

横をみたら、おじさんも本を開いていた。

 

そんな時は、なんだか嬉しい。

 

 

 

バスは小学校の横をとおる。

 

すると

小学生の長い列がわーわー下校していた。

 

小さい歳から順に下校していた。

 

 

 

本を閉じてながめていたら

 

横のおじさんも本から目をはなして子供をみていた。

 

 

 

目の前に映るのはお年寄りの後ろ姿ばかりだった。

 

その後ろ姿はみんな

 

顔を横にしていた。

 

みーんな小学生をみていた。

 

 

 

 

ただ学校が終わって家に帰るだけなのに

 

なぜか走ってはしゃいでる。

 

 

ましてや雨も降ってきたのに

 

なぜか嬉しそうにはしゃいでる。

 

 

 

 

そして、一人の女の子がバスに手を振った。

 

 

だーれも手を振り返す訳でもなく、

 

ただみていた。

 

 

 

だけどその顔はきっとみんなほほえんでた。

 

 

 

 

心の中はほほえんでた。

母さんの職場

 

母さんの職場に行った。

 

小学生みたいに

家の鍵を忘れて、入れなくって。

 

 

母さんが職場を変えたのは最近。

 

といってもどれくらい時間が経ったかは「大体」という言葉を借りても無理なほど、時間の感覚がわからないけれど。

 

 

突然、娘が職場に現れてびっくりした母の驚き方といったら、

 

かわいかった。

 

 

母さんはいつも職場の話をする。

 

前の職場のときも随分楽しそうに家で話をしてくれたけれど、昔が殻の割れていない卵だとしたら今はツルツルのゆで卵。綺麗に剥けて、すげー輝いてる。

 

職場を後にして、もらった鍵で家に入れた時、なんだかにやけてぬいぐるみと目を合わせて、ベッドにダイブした。

 

うれしかったらしい。

 

 

やっぱり「母」が笑っている家庭が、結局みんなが笑顔になって1番大事やし、

 

「女」がご機嫌でいることが夫にとっても1番いいこと。

 

でも、その〝ご機嫌〟は夫がとるんではなくて自分で作る。(※ココ大事)

 

 

じゃあその為に何が出来るか?といった時のひとつに、「居心地の良い場所を見つける」のは本当に大事だと実感した。

 

自分の旅の経験を通しても、本当にそう感じる。

 

 

よく、「置かれている環境」なんていうけどそれは幻想。

 

どんな環境であろうと、変えれないと〝思い込んでいる〟環境も、全て自分が選択して出来上がっている。

 

なにも自分みたいに住む場所を変えなくてまで、職場を変えなくてまで、日々の生活にたった一つ新たな環境をプラスするのでも十分に変わる。そして今から出来る。

 

週一でヨガ。

月一でちょっと豪華なディナー。

 

何でもイイ。

 

 

 

春やし(笑)

 

自分にはよく分かんないけどなぜか一年の始まりと終わりが区切られてるこの季節。別に冬がはじまりとうたっても良かったのに。

 

「新たなスタート」を切るのに気持ちいい空気や気温になるからなのか?

 

 

多分、地球の波動的にも変化の多い、振れ幅の大きいタイミングなんだと思う。

 

暖かくなって晴れの日が増える、っていうのも心理的に十分に影響するけど。

 

 

 

それからもひとつ。

急遽開催された「職場体験」から感じたこと(笑)

 

 

不思議なことに、家族って、こんなに近くにいて毎日同じ景色を見ているのに、

 

母さんや父さんが毎日見ている景色を、子供は知らない。し、同じように、参観日やなんかでしか子供の見ている景色を親は知らない。

 

「話」でしか聞いたことがない。

 

話でしか聞いたことがないのだから、ひょっとしたら父さんは毎日スーツを着ているだけでサラリーマンではないかもしれない。

 

まるで、「地球はまるい」と同じように。どれだけの研究者がそう声を揃えたって、グーグルアースで宇宙まで昇ったって、自分で確かめてなどいないのに皆そう思っている。

 

会話さえも飛び交わない家族だっているけれど、そうとなれば「重なっていて且つ、家族以外の他人とは関わっていない部分」の景色は「家ん中」しかない。

 

 

そして、日本人のサラリーマンであると家より職場にいる時間の方が長い。

 

職場の人の方との方が同じ景色をずーっと一緒に眺めてる。

 

 

鼻が詰まってきたから文が中途半端であろうと寝るけど、

 

ここでいう「景色」とは物理的に目に映っている景色のことであって、家族はそれ以外の多くの景色をきっと共に見てきていた人間であり、今もきっと見ているんだろう。

 

目には映っていないけれど。

 

目が映すのは見慣れた朝ご飯に、生活感のある洗面台、匂いの染まったベッドシーツ、テーブルについたキズ、

 

それくらいだ。

 

 

その、目には映っていない「今みている景色」が違うのであれば、若しくはあるのに見えていなかったり、見ようとしていなかったり、今まで見た景色を一方が忘れていたりしたら。

 

将また、見えている景色が同じでも「一緒に見ていること」を忘れたら。

 

 

思い出す努力をするのか。

 

それとも、

そのまま家族と呼んで良いのか。

 

呼ばないか。

 

いや、いつまでもそう呼ぶことしか出来ないのが家族だけれど、それも血縁上の問題であって自分がそれを何と呼ぶかは、自分次第なのだ。

 

家族の定義をよく考える。

 

 

リメンバーミーでの、主役でもない泣けるシーンでもない所の台詞が刺さった。

 

 

「俺は芸術家だ。一つの家族に収まらない。世界中が家族だ。」

 

 

さて、解釈の仕方はいくつか出来ると思うけれど、ここでは書かない。

 

 

 

なぜなら、

 

鼻が詰まってきたので。

 

 

 

久しぶりの朝日と、秦基博の「朝が来る前に」と共に、ねます。

 

もう朝来てるんだけどねww

 

 

 

 

 

 

 

神のみぞ知る

 

朝。

 

ねぼけまなこでテレビをつける。

 

映ったのは普段はチャンネルを変えるような

 

いかにも重たいドキュメンタリー番組。

 

 

数時間ぶりに開ける目には相当しんどいだろうに

 

珍しくそこからチャンネルは変えなかった。

 

 

7年前の震災のことだった。

 

 

 

 

家族四人。

 

もうすぐ車で高台に着くというところで

 

津波にのまれた。

 

 

お父さんと娘は亡くなり

 

お母さんと生後何ヶ月の男の子だけが

 

生き残った。

 

 

そして7年経った今、

 

男の子は亡くなった家族について聞くようになった。

 

 

番組ではお母さんが男の子を助手席に乗せ

 

「四人が最後に居た場所」を教え、状況を説明していた。

 

 

7年経ってやっと、「忘れたい」けれど

 

「忘れてはいけない」事から蓋を開けていた。

 

 

 

そのほかに

 

お母さんを亡くした人、

 

おばあちゃんを亡くした人、

 

自分一人生き残ってしまった人、

 

沢山いた。

 

 

 

その中で

 

中学生になった男の子の文章が

 

とっても大人だったけれど

 

 

 

この番組を見ておもった。

 

 

 

あの四人家族は

 

あそこで二人が死んでしまったから

 

今も死んだ二人を愛せているけれど

 

 

もし二人が今も生きていたら

 

夫婦仲が悪くなって離婚していたかもしれない

 

今はもう愛し合っていなかったかもしれない

 

浮気をしていたかもしれない

 

 

けれどあそこで死んだから

 

そこに在った愛が永遠になっている

 

 

こんなことは到底言えないけれど

 

これは一つのそこにあった可能性に違いない

 

 

 

 

大人な文章を書いた男の子は

 

同じような境遇の子が沢山いるだろう

 

 

それでも一枚の作文用紙を渡されたとき

 

そこに書く字は、内容は、

 

みな全然違うものになるんだろう

 

 

7年経った今も

 

涙で紙を滲ませる子もいるだろう

 

 

力強い文章を書ける子もいれば

 

いつまでもペンすら持てない子もいる

 

 

 

結局のところ

 

タイミング

 

 

 

 

同じ事柄が起きてもそれを見る目はその人次第

 

 

ということ。

 

 

またその見る目は今日から変えられるということ。

 

 

 

「これをしたらこの子は可哀想」

 

という考えは

 

あくまでこちら側の勝手な偏見でしかない

 

 

若しくは

 

それが可哀想なことだと思えても

 

アドラー心理学的には

 

「その子がその物事をどう捉えるかが重要」

 

なので

 

 

 

そういうこと。

 

 

 

そしてタイミングについては

 

きっと「すべて」に意味があるんだろう

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なぜなら学ぶためにうまれきたのだから

 

 

 

 

 

 

 

もっと愛のある世界になるために。

 

 

 

3月8日

 

 

予定より2、3ヶ月早くにバリ島を出た。

 

けれど感覚は最低でも3ヶ月は滞在していたような。

 

 

それもバリだけでなく去年の終わりにした一人旅のような、

 

色んな国を歩き回ってきた感覚。

 

 

 

けれどどうゆうことやら、

 

カレンダー的には1週間しか経ってないらしい。

 

 

日本にいたら全く違う時間の感覚なんだろうに。

 

 

 

日本でふだん頻繁に会っていない人とも

 

いつかのブログに書いたよう

 

物理的な距離が遠くなれば

 

それと比例してその人までも遠く感じる。

 

 

 

英語でよくいう「I miss you」

 

日本語で言うと「あなたが恋しい」や「会いたい」は

 

自分の中でどうも一致しない

 

同様な日本語がないなーといつも思う

 

 

だからといって日本人に「i miss you」というのも変だから

 

仕方なく「恋しい」という言葉に当てはめる

 

 

そんな、英語の方が自分の感覚や感情を当てはめたり

 

実際にそれを口に出しやすい言葉が沢山ある

 

 

 

色んな国の人に出会って英語で話す機会があれば

 
「(なぜ)何のために写真を撮るの?」
 
「誰のためにアコーディオンを弾くの?」
 
「愛についてどう考える?」
 
「あなたにとって愛とは?」

 

 

自分の考えや人生観を語る場面がよくある

 

これも一人旅ならではなんだろうけど

 

 

日本ではまだまだ「愛についてどう思う?」

 

なんてよっぽどなことがない限り聞かないし

 

況してや初めて会った人とそんな会話はまずない

 

 

人生観や思想、死生観、凡ゆる物事に対する考えを表現することすら

 

恥ずかしいとか、ナルシストとか、

 

道徳の授業でやっと仕方なくペンを握るくらいだろう

 

 

勿論、そんな話が飛び交う場所もあるのだろうけど

 

もっと日常的に「自分」や「愛」について

 

語るシーンがあっていいんじゃないかと思う

 

 

 

日本人は集団行動を愛しているから

 

集団からはみ出ることを最も恐れているから

 

 

誰か一人が勇気を出して愛を語ったところできっと

 

「え、なに愛について語っちゃってんの、きも」

 

くらいのテンションで秒殺されることが

 

特に若者にはまだまだ多いだろう

 

 

 

「学校はまちがうところ」というけれど、

 

今は本当の意味で“まちがっている”。

 

 

 

 

 

 

さて、学校といえば、今日は卒業式らしい。

 

 

 

小学校を卒業する時、卒業することがこわくて、

 

中学校に行くのがこわくて、

 

なぜみんながそれをできているのか、

 

不思議でたまらなかった。

 

 

 

けれど気づけば自分もそんな道を歩めていた

 

どうってことなかった

 

 

 

今はなぜほとんどの人がわざわざ

 

20年も掛かる子育てという選択をしているのか

 

またその道を歩む人の多さ

 

疑問さえ抱かずごく普通にそれを熟す人々

 

不思議でたまらないけれど

 

 

小学生の頃こわかった「卒業」のように

 

大したことはないんだろう

 

 

 

大人は大人に見えるだけで

 

子供も子供に見えるだけで

 

学校の先生は先生ごっこをしているだけで

 

キャビンアテンダントもごっこ遊びをしてるだけで

 

 

 

「こんな女性になりたい」

 

そう思ったら今日からそれを演じられる

 

 

「上司にかしこく思われたい」

 

そう思ったら今日からそれを演じられる

 

 

「かわいいと思われたい」

 

だったらぶりっこしてりゃあいい

 

 

 

なんにでもなれる

 

 

 

 

 

今の自分は

 

かしこい女性のフリをすることも

 

少年のような子供のフリをすることも

 

エレガントな女性にだって

 

純粋な子供にだって

 

 

なんにでもなれる

 

 

 

 

あと10年生きれば

 

子供のフリはできなくなっている

 

いやきっとしたいと思わなくなるか

 

必要性がなくなるか

 

 

けれど

 

どんなときもなりたいキャストは設定できる

 

 

 

少し前まであらゆる接客や人々の仕事、

 

リッチなサービスを受ける人とそうではない人、

 

今を夢で創り固めている若いカップル、

 

浮気をしながら仲良く見せている家族、

 

街に溢れかえるビル、飲食店、車、お金、人間、

 

 

 

「すべて」がおままごとのような

 

人間がこの星で遊ばれているような、

 

そんな感覚だった

 

 

 

それを知らずに遊んでいるのか、

 

それを知っていてある日

 

あきらめて「ごっこ遊び」を楽しむことにしたのか、

 

そうだとしたらもっと楽しめないのか、

 

なぜこんなにも困っている大人が多いのか、

 

嫌いな役をわざわざ選んでいるのか、

 

わからなかった

 

 

 

まるでミニチュアの模型を側から見ているようだった

 

 

 

 

そして自分もそんな世界を楽しめずにいたけれど

 

今は少し大人になって

 

「どーせなら楽しんでみようか」

 

くらいにはまた戻ることができた

 

 

 

 

ので残り6時間ほどの飛行機、たのしみまーす。

 

 

 

 

 

 

 

 

がいこく

 

乗り換えのクアラルンプールなう。

 

 

既に心が落ち着いている。

 

 

既に自由を感じている。

 

 

既にとてつもなく楽だ。

 

 

 

 

肌の色、メイク、ファッション、国籍のカオスさ

 

 

 

気楽に話しかけてくる子供

 

「自分」を持った美しい女性

 

 

 

なんだろ

 

 

日本にいると「子供」が苦手なのに

 

外国にいると子供も可愛く思えるし

 

子供に対する親の態度に不信感を抱くことがない

 

 

子供のことを精一杯可愛がっているのだけれど

 

日本みたいないきすぎた赤ちゃん言葉もなく

 

溺愛している感がなく

 

大人のように扱うあの感じが好き

 

 

 

乗り換えの空港で既に

 

日本にいる時のような

 

「すべて」に対する疑問が全くなく

 

 

既に美を感じている瞬間が多い

 

 

 

 

具体的に書けば、

 

「あの人あのファッションであの帽子いく?!」

なんてくだらない発想はまず思い浮かばないし

 

「わーあの女まじ苦手」

と思う瞬間もまずないし

 

「男だったら絶対選ばんわあの女」

とか思うことがない

 

 

 

こう書いてると

どんだけ「女」に対して敏感であるかが良く分かる(笑)

 

 

 

こっちにいれば、

「わーかっこよあの女の人やば」

 

若しくは

「…(美しい)」

と言葉にならずに目で追いかけている

 

 

そのどちらかのシーンがめちゃくちゃ多い。

 

 

 

よって、

 

「あの女のどこがいいの!?」

という男性に対する“理解できない”という心理も働かないので、

 

カッコいい女も、

それを選ぶ男も、

両方=みんな好き、ということになる。

 

 

むしろ

「あの男の人見る目あるなー」とか

「あの男の人しあわせだなー」とか

 

 

そんなことを無意識のレベルで考えている

 

 

 

ただの

 

変人

 

 

でした。

 

 

 

 

 

そんな20時27分。

 

 

 

向かいでインターネットをいじるおばちゃん

いきなりカラオケを流して歌っている。

 

 

その隣の肥満型の男の子は

動画を見て爆笑している。

 

 

隣に来た女の子は自分に似て

お菓子を頬張りながら携帯をいじっている。

 

 

 

 

みんなだいすきだ。