コロコロ変わってすみません。
やっと今、「おまえおもしれぇな」と同い年から60歳まで言われるようになった。「生き方がカッコイイ」と言われるのは何より嬉しい。別に格好良く思われたい気はないけれど、やっと自分のしたい生き方が出来ていて、それが自然に格好良く映るんだろう。
これからもっと容姿にも現れてきて、これ以上美しくなってしまう自分が、コワイ。モテる女は、大変だ。
そしてもっと嬉しいのは、
「こんな変なヤツいるんだ」
「こんな変な生き方あるんだ」
「なんだ、アレでも生きれるんだ」
と自分の存在を知ってくれた人たちが、
「私も変な生き方していいのかな」
「ちょっと好きなことしてみようかな」
と新たな世界を拓いてくれること。
新たな、という表現はちょっとちがうな。
元々、大抵の人は子供のときは何も考えず、無意識に一日中好きなことだけをして、親に嫌いな食べ物を与えられたらわーわー泣き喚いて訴えていたはずだ。
「わたしはコレがすき!」
「わたしはコレがしたい!」と。
ただ、いつしかそんな感情は薄れてしまう、というよりは感じられなくなっている。
自分もそうなっていた。今でさえ誰よりも趣味が多い多趣味野郎なわけだが、学生時代はオワっていた。
「学校やめる」と言い出した時も一切、「おまえ、いいな」という声は浴びなかった。
そりゃそうだ。
学校やめる、といって、それいいね!という人の方がこの世界では変人なんだろう。いや、それいいね!と言われる生き方とは真逆の位置にいた。死んでいた。
でも今、自分に集まる人は皆「ちょっと海外行ってくる」といったら、おまえらしーな!と返ってくる、ある意味で変人ばかり。
動けば動くほど、面白い具合に出会う人間や出来事が変わっていった。
気持ち悪いほど思考の合う人、気持ち悪いほど息ぴったりな人、仕組まれたとしか思えない絶妙な出会い、タイミング。
もうなにも驚かない。
結局、他人のやることになんて自分が思ってるより人は興味ナイ。(本当に応援してくれる人は何をしても応援してくれる、と信じてる笑)
だから何でも口に出す。
今回もそう。
完全に決まってない状態で、
「もう決めたわ、6月に海外行く」
なんて色んな人に言いふらしてきた。
すると必ず現れるのは、
「おまえ言ってることちがうじゃん」
「どうせ行かないんでしょ」
「結局、口だけでしょ」
という有り難きお言葉。
けど、本当に6月に行くかなんてどうでもいい。
「ちょっと行く気なくなってきた」
「あ、やっぱやめた」
と返しても問題ない。
大事にしているのは、その時の意思を「決めたていで」話すこと。
そして動く。
海外に行くと宣言したなら、飛行機を調べる。
その国の画像を見てひたすら妄想する。
途中で気が変わっても、
「他人に言ってしまったから」
「有言実行しないと恥ずかしい」
という他人軸はポイッとする。
“常に”
“今”
の自分が「何をしたいか」に耳を澄ます。
有言実行という言葉が良しとされているけど、気が変わればその時は有言不実行でもいい。
有言、自体に価値がある。
そもそも海外に行くのをやめた所で誰も困ってない。
それなのにあーだこーだ言ってくる人間は大抵、本当は羨ましいだけだったり(自分の発言に責任を持たずにコロコロ変わることが)、
とにかく気にする必要はないので、
これからも「言ってることちげーしょ!」てことは多々あると思いますが気にしないで下さい。
(橋の上。幸い川に落ちなかったものの、このあと豪雨にヤラれます。)
ついに初対面
片想い相手とご対面の日。
画像での一目惚れを経て、海を越え、国境を越え。
(美しすぎ。。)
そらもう、嬉しくてこの日は一緒にベッドインしました。
前の記事に書いた通り、こいつに会いに行くまではもう散々だった一日ですが、こいつに会ってからは一変。アコーディオンショップのお兄さん2人が神様に見えた。
http://boketto.hateblo.jp/entry/2017/07/14/041040
(前回の記事)
珈琲を入れてくれ、「練習すれば絶対弾けるよ」というのでお礼に置いてあったメモ帳に似顔絵を描いてプレゼント。そして自分の身体に合ったコンパクトサイズのアコーディオンなのに、「重い、ムリ。」という心の声が聞こえたのか「駅まで車で送るよ」 と言って送ってくれた。
ダイスキ。
ドイツに来てから初めて乗る車。マジでありがとー!と助手席に乗ろうとしたら「そっち運転席だよ」と笑われる。そんなザ・日本人を見せつけた後、車の中で、このアコーディオンをネットで見つけて一目惚れしたこと、死ぬまで弾き続けること、これからのこと、色々話した。
「カッコよく弾けるようになるなったらまたここに来るよ!」と言うと、もうすぐイタリアに行くからここへ来ても会えないよ、と彼。なーんや、と助手席の窓越しにダッハウの町並みを眺めながら物思いに耽ていたら、「日本人のアコーディオン奏者だとコバヤシって人しか知らないなぁ」と彼が口を開く。後で調べて気付くけど有名な「coba」のことだったのね(笑)
そっかじゃあ、このアコーディオンをなまら弾き倒して上手くなって、有名になればこのおっちゃん(ゴメンナサイ)にも届いて、おっちゃんもアコーディオンも喜ぶやろなぁ、と急に悟ったようにニヤける。自分が有名になりたいというより、こんなイケメンなディオン(友達が命名したアコーディオンの名前)が広く知られて、それを生んだこのおっちゃんにも人が集まり、かつての自分みたいな“膨よかなおっちゃんが弾いてるアコーディオンへのイメージ”を持った人達にも知れてほしい。こんな格好いいアコーディオンもいるんだぞ、と。
その時には自分みたいな日本人が彼を訪ね、「日本人のアコーディオン奏者ねー、cobaは知ってる。あとpercyってのが19歳の時に鍵盤も黒くすれなんて面倒臭いこと言ってきたよ」と彼は言う。その日本人は「知ってるよー」と言う。
そんな不気味な妄想と笑みをダッハウに撒き散らしていたら、もう駅に到着。とにかく感謝の気持ちを伝えたくて前日の夜に覚えた英文を吐き出す。
「感謝を伝える英語フレーズ○○選」
なんて列車内でも一人で唱えていたけど、最後はそんなの吹っ飛ばしてハグをした。もう感謝は伝え切れなかった。
全身真っ黒な衣を纏ったシャレオツなアコーディオン。それに見合った演奏をしなければ、こいつが恥ずかしがる。少なくとも高校生がCHANELと名乗ったバッグをドヤ顔でぶら下げ、ブランド負けしてる風にはなりたくない。
早速、こいつとデート。
散歩のおじさんが「ブラボー」と幸せそうな顔でグッドポーズを向けてくれたり、ランニングのお兄さん達がいちいち笑顔で会釈してくれる。一人は「来週、ニュルンベルクのオススメのところを案内するよ!」と連絡先をくれた。
もっと上手く弾けるようになれば、もっと思い切り弾いて、もっと人が集まって、もっとこの輪が広がるんだろうなぁ、と想像したらもう口角が上がりきってしまう。
本当に感謝で胸がはち切れ、た。
(顔険しすぎワロタw)
(ぷりけつ!)
アコーディオンに出逢うまで
7月12日。これから先死ぬまで共にするであろう、アコーディオンに初めて会う、忘れられん日。
その前にミュンヘンにあるストリートピアノを奏でようと早く家を出たのに、ミュンヘン、分かりにくすぎ。どこへ歩いても「目的地まで二分」と表示される。こんなに遠い二分は初めてだ。Googleマップも初めてのドイツ生活に疲れているんだろう。
ベルリンや今住んでいるニュルンベルクとは違って、スーツをパリッと着こなして髪はヘアジャムで固めた様な男性が多く、颯爽と歩く人が多かった。恰好いいけど、落ち着かない。道を聞いても急いでるような人が多かった。
「なにがミュンヘンだよ」と心の中で呟きながらストリートピアノを探すのにも疲れ、最終的に「もっと分かりやすいとこに居れよ」とピアノにも文句、そうしてるうちにもう時間切れ。
諦めてアコーディオンの待っているダッハウ行きの列車に乗ろうと、何故か目の前で列車を見送り、安定の30分遅れ。今日はおかしい。
もうどうしようもない現実を受け入れ、スマホで英語の勉強を始めるも、列車に乗ってから気付く。
「切符、買ってない」
…………。
\( ˆoˆ )/\( ˆoˆ )/\( ˆoˆ )/
ここでは日本のように改札がない。
その代わりに検察係が列車内をまわり、チケットチェック、並びに刻印、無賃乗車をしていたらそこでバカみたいな額を要求される。
切符を買うのは当たり前でしょ、っていう信頼の元みたいだけど、本当に信頼があるなら検察係もいらない。結局、検察係が車内全員をまわり、無賃乗車をしてる人には罰金、その場で払えなければ銀行振込、なんて面倒な手間をかけるのなら改札作っちゃえばいいのに。と思う。
まぁ、今のところは、20分以上の乗車のときしか検察員はほぼ来ない。からどうにか、
ならない。
ダッハウまでは約20分。
隣のおっちゃんと仲良く話していたら、、
はい、来ました、検察員。
検察員「 」
自分「( ^ω^ )」
からの、
( •̅_•̅ )
( •̅_•̅ )
( •̅_•̅ )
もう、この顔になるしかなかった。
パスポート見せろだの60ユーロ払えだの住所はどこだだの、今日一日既に悲惨な自分に、何のためらいもなく紙を突きつけ「ここに振り込め」と彼は消え去った。
このシステムが鬱陶しいのは、このような“切符買い忘れの愛おしいバカ”と“無賃乗車がしたくて堪らなかったバカ”が全く同じ扱いをされなければいけない、ということ。
「いや、そもそも切符買い忘れるってどういうことだよ」と思った人は鋭い。その通り。そんなバカはさほどいない。失くす人はいるだろうな。
にしても60ユーロとは悲惨なものだ。少しの距離タダ乗りしちゃえ!といった場合も、こんな高い運賃払えるか!という長距離の場合も同等。でも、人間が集団で生活するにはどこかでルールを定めないと、成り立たない。んだよなぁ。
あと三ヶ月で20歳になる。「○○は20歳から」というルールは非常に面倒臭いけど、「あと3ヶ月で20歳だからいーじゃん」と一人を許してしまえば今度はそれを全員のルールにしないといけなくなる。
そんなこんなで、無事30分遅れでアコーディオンショップに着くのですが、疲れ果てたので明日書きます。さようなら。
画像だけ(こんな笑てる自分久々みたw)。
恋をしました。
“声は好きなのに、見た目は好きになれない”
これほど辛い恋愛はない。
日本を出る二週間前まで、あらゆる人に「ストリートピアノまわってくる!」と高唱していました。
ストリートピアノを知らない方は↓
がしかし、一週間前にして「ピアノ、ちょっと飽きたんじゃね?」疑惑。それはそれは大きな問題で、飽き性な自分が唯一長年続けてきたピアノ。“飽きたかもしれない”という事実を受け入れることは本当に辛かった。しかも、それも、浮気。
「ピアノより、アコーディオンしたいわ」とある日突然冷めたテンションで皆様に伝えたもんで、ストリートピアノどうなったんだよ!!なんて声もありましたが、その台詞は自分が一番叫んでいました。
そしてもう一つ問題なのは、
恋したのはアコーディオンの「音色」であって、なぜか昔から見た目がどう頑張っても好きになれない、ということ。
前者は、「音で人が集まる空間、街を作りたい」という目的は変わっていないので、手段(楽器)が変わっただけ。今思えば大したことない。
後者は、一晩泣いて悩んだ挙句、「(膨よかなおっちゃんが弾いてる)アコーディオンのイメージを変えればいい」に辿り着いた。それでも好きになれないのなら、作ればいい。
そして早速YouTubeを開いて、
「アコーディオン 女性」で検索。
日本人女性のアコーディオン奏者のイメージも、自分がなりたいような「カッコよさ」ではないので外国人女性の動画を無理矢理叩き込んだ。
すると、
あれ…
もしかしたら、
アコーディオン、
カッコよくない??
にまで心を持ち上げることに成功。
次の日にはもうアコーディオンしか視界にないのでした。
そして奇跡的に見つけた全身ブラックのイケメンアコーディオンくん。
しかも、入国予定のドイツにある。
これはもう運命。
すぐに連絡をして値を聞き、毎日のようにこいつを抱く妄想をし、こいつを抱く夢も見た。
ここまでくるともう、手に入ったと同じ。
結論から言うと、明日出逢えます。
今住んでいる所から約2時間。
片思いのこいつに会うために一人で。
二度、お店を訪ねた所、画像のはどうやら特別に鍵盤を黒くしたのだそうで「どうしても同じのが欲しい!」と“可愛く”申し上げた所、明日までに仕上げてくれるのです。
(工房。興奮でブレてる)
日本にいる時から画像で見ていたこいつが今もう目の前に、と思うと不思議で仕方ない。
※ちなみにストリートピアノもかるく触ってくるので安心してください。
お店の周辺。
この可愛さ。吐き気がする。
バックパック、いらん。
正直、何のためにここ(現在ドイツ)にいるのかわかりません。ネガティブな意味じゃなく、イタリアやトルコはさらっとまわってしばらくここに滞在しようかな。
バックパックひとつでぐるぐるするのも好きだけども、街歩きにはバックパックなんてぶん投げて、たまには少しだけお洒落もしてまわりたい。男だったらおそらく、今頃アマゾン川かどっかの裸族と暮らしてるけど。
「観光」という名であらゆる地に足を運び入れるのはどうも自分の感覚と一致せず、それなのに自ら観光客と名乗っているようなでっかいバックパックは言うまでもなくしっくりこない。なんか、もう、
タイミングやフィーリングが無駄に良すぎる映画のような出会いが多すぎて、何もしなくても友達は出来るし、ご飯も宿泊もほぼお金かかってないし、困ってもすぐ出会いが訪れて、気が付けば恵まれちゃう。ちゃう。
ところで言語は?
って話だけど共通言語、ナシ(笑)
今周りにいるのはドイツ人、トルコ人。もう舌の使い方からして違って何言うてるか分からない。なのに日本にいるよりむしろストレスフリーで快適に暮らしてる。
感情や思考を伝える手段として多くを占める「言葉」。それが問題なく交わせる日本より、全く通じないこの国の方が生きやすいというのは、どういうことだろう(笑)
きっと、色んな自己表現の手段がある中、自分の「言葉」の優先順位は高くない。というのも感受性が酷く備わって生まれたお陰で、言葉はあまり必要ない。むしろ言葉が多い人は「もうそれ以上しゃべらんで。。わかってるわ」とストレスが生じてしまう。
それが全くない今の生活環境は、自分にとってそれはそれは心地がいい。単純にフィーリングが合うのが何よりの理由だけど。
じゃあ、
言葉なしに何で自分を表現するの?
といえば、写真、イラスト、音楽。
こんなにも迷惑なくらいに好きなことが芸術面に偏っている理由は、そういうことだと思う。
言葉は、あくまでも感情や感覚に一番似合った言葉を着せているようなモノで、だからたまに「ありがとうとごめんが合わさった言葉があればいい」というのはその微妙な感覚に合わさった言葉(洋服)が見当たらない、ということだと思う。
自分にはその感覚に着させるものは言葉ではなく、写真やイラスト、音楽の方がよりピッタリとハマる。
それは贅沢なことで、言葉を発せる口も、誰かを抱きしめられる腕も、一瞬で感情を表せる顔(表情)も、必要以上に沢山持っているのに、それではしっくりこず、さらに物を使う。
もし、自分がおしゃべり好きな一般的な女性で感情や思考に言葉を着させるのが得意なら、カメラや絵や音楽は別にやらなくたっていい。
でもたまたまこう生まれてきてしまったのだから、わざわざ「上手く喋れるようになろう」とか無駄な努力は良して、芸術面を極めていこうと思う。
に加えてたまたま五体満足で口や目も耳も備わって生まれてきたのでその子達も存分に使ってみようと思う。
段々、カメラ、イラスト、音楽、それぞれでどんな感情や考えを伝えたいのかがハッキリしてきた。